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そのまま船は彼へと近付いてきていた。海の波を掻き分け、船が起こす引き波が彼の方へと流れてくる。小型船のためにそれ程大きくはないが今までとは別の波を受け、彼は体勢を保つのに少しばかりの労力を使った。 不意に彼の視界を横切ってくるものがあった。それは彼の目の前で跳ねるように着水する。 それは適度な太さのロープだった。反射的に、思わず彼はそれを両手で掴む。荒縄のしっかりとした手触りが、素肌が露出している彼の掌に伝わってきた。握り締めると丁度指が一回りする程度の太さで、手繰り寄せるには丁度いい。それを把握すると彼は顔を上げ、ロープの対角線上を見た。 その先には船の甲板がある。そんな場所にはまるでそぐわないようなスーツ姿の男が立っていた。ジャケットこそ羽織ってはいないが、ネクタイとベストはそのままに、ワイシャツは肘の辺りまで捲り上げられている。黒に近いが褐色がかっている短い髪が淡い太陽に照らされていた。 その人物は、彼にとっては馴染みの相手だった。左肩にロープを何回か緩く巻き付けた状態で担ぎ、そこから伸びるロープを両手で持っている。 馴染みの相手が、遭難状態にあった自分に対して、救援のためのロープを投げてきている。彼は微かに続く頭痛の中、そんな状況だと判断した。ゴーグル越しの視界が少しぼやけて感じられる。レンズが曇ってきているらしく、彼は片手を挙げて拳で軽く拭った。水気がゴーグルに引っ張られる。 彼の視力は良い方だった。クリアになった視界の果てに、親友である人間が僅かに微笑んでいるのが見えた。手にしているロープをしっかりと保持し、彼が辿ってくるのを待っている様子だった。 彼は深い溜息をついた。状況は好転して来ているようで、安心したからか疲れがどっと来る。しかし、こんな風に張り詰めた意識が途切れた時が一番危険であると、彼は海での体験から知っていた。身体を甲板に上げるまでは気を抜いてはいけない。それが海における絶対的な原則だった。 彼は海に漂うロープをきっちりと確保し、確実に辿ってゆく。辿ったロープを肩に緩く巻き付け、自分の身体に繋ぎ止めておく。その対角線上ではロープを強く確保しているらしく、彼は確実に海面を進んで行った。 彼は着実に自分の身体を船へと導いてゆく。水面に伝わるエンジン音とその振動が徐々に大きくなって来る。そのうちに、船の側面が彼のすぐそこに見えてきた。彼はその壁面に片手を着いた。海水のせいか軽く滑り、手の跡が塗装の上につく。 不意に彼の視界が僅かに暗くなった。頭上に影が掛かったのを知る。何事かと彼は視線を上げた。 親友が左手を差し伸べてきていた。淡い太陽光を背後にし、逆光に照らされている。 彼にとっては、これも馴染みがある光景だった。こんな風にして幾度となく、引き上げられて来た。微かな頭痛の中でもそんな記憶は思い返すことが出来る。 しかし、彼は何処となく、この光景に違和感を覚えていた。いつもの光景のはずなのに、何故だろう。そんな事を思う。親友を見上げたまま、その方へ手を伸ばすのを躊躇う。右手でロープを保持したまま、そこに漂う。 親友であるはずの相手は、何も言わない。それが当然であるかのように、微笑んで手を差し伸べたままだった。 彼も声を掛ける気にならなかった。疲れが全身に来ている事もある。身体が冷え切っていた。もう余計な事を考える力がなくなってきている。 |