海の中、光が天頂に煌き、波間が揺らめく。海面が近い。彼は疲れ切った身体を更に酷使し、最後の力をもって水を掻き分けた。泡がダイバースーツに覆われた身体に纏わりつき、弾ける。
 そして彼は勢い良く頭を浮かせ、そこに水ではない感触を覚えた。纏わり付く海水が一気に髪から雪崩れ落ち、肩に当たって飛沫を上げる。
 大きく口を開くと、水ではなく空気を取り入れる事が出来た。これは身体が待ち望んでいた行為だった。口許に残っていた海水の潮の味がする。
 彼は大きく一息吸い込む。鍛えられた胸板が膨らみ、身体は瞬時に空気を取り込んだ。大きな呼吸ひとつで、今まで不足していた酸素をかなりの割合で補う事が出来る。これもまた彼のダイバーとしての適性だった。
 それから軽い息を続ける。通常の呼吸に戻しつつ、彼は視線を巡らせた。ゴーグル越しに見える視界の下には海面が揺らめき、その上部には青い空が広がっている。更に見上げると、空には薄く雲が掛かっていた。その雲に太陽の光が僅かに遮られ、海の青さに較べるといささか頼りない印象を受ける。
 彼は手足に疲れを感じていた。海面に辿り着いたはいいが、早く海から出る必要があった。昼とは言え海水の温度は体温よりも低く、長時間浸かっていてはそれだけでどんどん体力を奪われてゆく。
 特に、今までかなり無理をして海面を目指した事もあり、彼は疲れ切っていた。人間には浮力が働くとは言え、いつまでも自力で浮いていられる訳はない。彼は未だ生命の危機から完全に脱した訳ではなかった。
 ――何か縋るものはないだろうか。彼は四方を見回した。しかし海に漂っているのは彼のみであり、水平線が何処までも続いていた。
 そもそもここは何処の海なのか。何故自分は潜っていたのか。それらを全く思い出せない。酸素欠乏による記憶障害かと思う。確かに少し頭痛がする。
 ダイブしていた以上、ベースとなるべき船が存在するはずだった。しかしそれも見当たらない。――海中にいるうちに流されてしまったのか僕は。彼はそう考えた。
 しかし、孤立無援の状況とは言え、何処かに居る船を求めて無闇に泳ぐ事は危険である。目標となるものがない以上、無駄に体力を消耗してしまう可能性が高い。
 水平線の何処かに何かを見出すまでは、じっとしておくべきだと彼は思った。それすら最善の選択ではなく、このままでは緩慢な死を迎える事になるだろうとも判ってはいた。
 とりあえず、疲れてはいるがどうにか顔だけでも海面に出すようにして浮く。呼吸を確保する。微かな頭痛は、むしろ意識を保つ助けとなっていた。
 耳元で海面が揺らめく感触がして、水音が響いてくる。彼はふと、そこに振動めいた音を微かに聴いた。
 波に揺れる海面が、別の音や振動を伝えてくる。それは僅かな現象であり、これを普通の人間は感じ取る事は出来ないだろう。それを聴く事が出来るのは、彼の類い稀なる感覚の鋭敏さに拠るものだった。
 彼は視線を上げた。音が響いてくる方へと視線を向ける。空は青いが雲が出ているために、遠くでは光が減算していて若干見通せない。
 そのぼやけるような視界の先に、影を見出した。彼はその方向に目を凝らす。その影が何か、見極めようとした。もし船だったら救助を求めるつもりだったし、まだ体力が残っている今ならば泳いでいく気もあった。
 彼が視線を固定していると、それは徐々に近付いてくる。ぼやけた輪郭が徐々に明らかになってゆく。響いてくる音も確かなものとなってきて――それはエンジン音だった。
 それを認識した頃には、彼の視界に小型船が入ってきた。彼の存在に気付いているのかいないのか、ともかくその船は彼の方へと近付いてくる。自分の方へ迫ってくるので、彼は無理はしない事とした。自分から泳いでゆく事はせず、体力を温存する。只、軽く右腕を挙げて合図をしてみせた。

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