波留の病室に備え付けられた壁掛け時計は規則正しく時間を刻んでいる。窓の外は夜闇に包まれ、空には月が煌々と輝いていた。僅かな星の明かりが暗い空を彩っている。
 時刻は既に遅い時間となっていた。この病棟は裕福な老人達が療養しているだけあって、かなり自由に過ごす事が出来るようになっている。一律した消灯時間と言うものは存在しない。しかし老人である以上、夜遅くまで起きている人間はそれ程存在しないものだった。
 波留は今の時刻においてもまだ起きている事を隠しているつもりはない。しかし隣室などへの迷惑も考えて、室内灯のレベルはある程度落としていた。
 彼は部屋の中央に車椅子を持ってきて、作業をしている。彼の目の前には半球状の電脳コンソールが配置されていた。そこから有線で接続された旧型のキーボードに彼の両手が置かれている。そしてコンソールの上に、ホログラフィ形式でディスプレイが表示されていた。
 波留の対面側にホロンが椅子を持ってきて座っていた。彼女はその両手をコンソールの上に置いている。
 彼女の手が置かれている部分のコンソールは幾何学模様を表示し、僅かな光を放っている。彼女はその光に照らされているが、両の瞼は閉じられていた。全くの無表情を保ったまま、じっと動かない。
 ディスプレイに表示される文字列を波留は見ていた。時折キーボードを叩き、定義を変更する。ディスプレイの光を顔に受けつつ彼はキーボードを操作してゆく。盤面を叩く音が静かな室内に微かに響く。
 ディスプレイ上を滑らかに文字列が流れてゆく。彼は別のウィンドウを表示させ、そこでも操作を繰り返す。
 これは、メタルに接続せずに行う旧式のプログラムコーディングの手法だった。
 このアイランドにおいて、メタルには有線でのみ接続が可能である。富裕層が滞在するアイランドである以上、融通が利く部分もある。望めばその回線も引く事は可能だったが、ここはアイランド内でも電脳アレルギー患者を保護する隔離病棟である。仮に新規回線の申請を出しても厳しいものがあるだろう。
 だから波留は、メタルを介さない旧式のシステムを入手していた。病棟外、アイランド全域に目を転じれば、裕福な人間が多い島である。好事家も多く、この手の古い品も探せば手に入るものだった。
 メタルは新たなネットワークシステムであるが、そもそもは今までのネットワーク同様にプログラムによって運用されているシステムである。言語の素養がない人間は、それを意識せずに使用しているに過ぎない。
 そしてプログラム言語とは、劇的な進歩を遂げる事は少ない代物である。ある程度のベースの知識があれば、後は参考書と慣れの勝負となる。そう言う理由により、波留は眠りに就く前の知識を、現在においても充分に生かす事が出来ていた。
 有線接続の設備自体は、病棟の共有スペースに存在している。ホロンはそこで時折メタルに接続し、様々な用件をこなしていた。
 しかしあくまで共有設備である以上、このように個人的に長時間使用する事は出来ない。セキュリティの問題もある。もっと単純に、通りすがりの他人に何をやっているのかと勘繰られる心配もある。
 そう言った事情から、波留は作業を自室に用意した旧式の設備で行っている。そのために彼がホロンにインストールしているプログラムは、メタルで入手していない。ほぼ自作となっていた。
 波留が一際高い音でキーボードのキーを叩くと、ディスプレイに表示されていたウィンドウが閉じられた。彼の顔を照らし出していた光の量が若干減る。
「――ホロン。以上でメンテナンス終了だ」
 彼の静かな声が、室内に響き渡った。それに呼応するように、ホロンがコンソールに置いていた両手が、そっと上がってゆく。コンソール上に表示されていた幾何学模様が、ふっと消失した。
 ゆっくりと彼女の瞼が開かれる。眼鏡を外した顔は瞳を露にしている。その瞳の焦点は合っていない。人間の瞳とは明らかに違う光点が瞬き、何らかのデータの処理が行われている。
「――…システム更新確認。再起動完了です――」
 ホロンの唇から、機械的な言葉が紡ぎ出された。一旦瞼を伏せ、そして再び上げられる。その時には瞳には人間らしい印象が戻っていた。彼女は胸元のポケットから眼鏡を取り出し、顔に掛けた。長い黒髪を手櫛で分ける。
 そんな彼女を波留は対面から見ていた。ディスプレイ越しに彼女の様子を見やる。
「起動してみて、不具合はないね?」
「はい、マスター」
「それは良かった」
 波留は微笑んだ。頷き、キーボードを操作する。すると、コンソール上に浮かび上がっていたディスプレイが光の筋を残して消滅した。全ての操作を終えたコンソール自体からも光が消滅してゆく。それに伴い、室内が暗くなった。
「今日のような事がまたあってはたまらないから、セキュリティコードを更に変更しておいたよ」
「それが賢明かと存じます」
 今回の一件は、あの職員を通じて電理研に伝わるだろう。そしてあの職員はホロンのシステム管理者である久島直々に任務を受けてきたと、彼らは訊いていた。
 システム上はホロンのマスターである波留と同等の権限を持つ彼が、この事態を知って新たな手を打ってこないとは限らない。ならばその対処は早急かつ確実に行っておくべきだった。波留はそう考え、ホロンはマスターである彼の考えに追従した。
「面倒事は厭なんだよな…」
 波留は溜息をつき、キーボードをコンソールの上に置く。ホロンが立ち上がり、コンソールに腕を伸ばした。キャスターで移動可能になっているこの設備を、彼女は部屋の隅へと持ってゆく。いつもの定位置に戻した。そして振り返り、波留を見て言う。
「そろそろお休みになりますか?」
「…寝なくては駄目かな」
 苦笑交じりに波留が言うと、少し離れた場所に立つホロンは困ったような表情を作り出していた。
 アンドロイドとは言え、女性にそんな顔をされると、波留は弱い。そう仕向けるようにAIが考え出した手法なのかもしれないが、ともかく彼には有効だった。

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