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「――マスター」 ほぼ一方的な立ち回りを演じたホロンが、自らのスーツをはたく。少し歪んだシャツを直した。 人間を投げ飛ばすような動きを見せても彼女の眼鏡は殆どずれていない。その位置を整えるような仕草をした後に、彼女は波留の車椅子の後ろに戻った。今まで相手をしていた、遠ざかってゆく制服の背中の事など気に止めない。 彼女の動きに呼応するように、周囲の人間から囁き声が巻き起こる。彼らの周りには、何時の間にかにギャラリーがかなり増えていた。やはり電理研の職員相手に背負い投げを1本決めたのがまずかったらしい。 ホロン自身は周りの評判を一切気にしない。彼女は波留の背後から上体を曲げ、彼の耳元に唇を近付ける。そして質問した。 「少し時間を浪費しましたが、海に行かれますか?」 それはアンドロイドらしい質問だった。与えられた命令をあくまでも遂行しようとする態度がそこにある。AIに拠るものとは言え、波留は彼女の生真面目さに微笑した。 「…いや、もう夕方だ。今日は止めておこう」 言いながら波留は、耳元に掛かっているサングラスの蔓を指先で持ち上げた。そのまま水平に移動させ、サングラスを自らの顔から外す。伏せられた瞼が露になった。軽く溜息をつき、彼はサングラスを膝の上で折り畳む。 「悪いけど、僕の病室に戻してくれないか」 そう言って波留は瞼を上げた。視線を落とすと、膝の上でサングラスを握っている自らの手が見える。皺が寄り骨ばった白い肌の老いた手がそこにあった。その手にそぐわない大きさのダイバーウォッチのデジタル表示が、今の時間を指し示している。更には病院服に覆われてはいるものの、酷く細い両脚も視界に入ってきていた。 「判りました」 彼の背後でホロンの返答が響いた。そして彼の視界が動く。ゆっくりと車椅子が旋回してゆく。視界の隅には周囲に群がった人々の存在が感じられるが、彼はそれらの人々を全く気にしてはいなかった。 ――久島部長ですよ? 不意に波留の脳裏に、先程の職員の意外そうな声がよぎった。それに従うように胸にむかつきが再来する。 彼は深く溜息をつき、胸元に片手をやった。その手を更に上に伸ばし、掛けられていた上着を引っ張って肩をきちんと覆うようにする。少し身体が冷えているように思われた。 膝の上にあるもう片方の手はサングラスを握り締めている。そこに嵌め込まれた黒く色づいたレンズが、窓から差し込む夕陽を弾いていた。 窓の向こうで風が吹き、ヤシの木が揺らめいている。夕陽がそれを照らし出し、長い影が病棟の廊下に差し込んでいた。廊下を移動してゆく波留達にもその影は掛かり、流れてゆく。 |