病棟の廊下は一面ガラス張りであり、夕日となった陽の光が横に差し込んできている。一般社会同様に病棟も人が戻ってくる時間帯であり、徐々に人通りが増えてきていた。
 その廊下の中央で、車椅子の老人と人間の若者が問答を続けている。目立つ光景だった。病棟であるために廊下の幅は広い。他の車椅子の人間が通れない訳ではないが、邪魔である事は否めない。
 そんな中、電理研の制服を纏った男が一歩踏み出す。しかし彼は老人の脇をすり抜けた。波留の斜め後ろに控える格好を取っていた女性の手を掴む。そのまま掌を重ね、耳元で何事かを囁いた。
 掌を介した電脳経由と音声認識。そのふたつを組み合わせたセキュリティコードの入力。いざとなればこれを使うように、彼は上司から受け渡されていた。
 このアンドロイドの機能は現行最高値である。介助用とは言え、義体である以上その身体能力は人間を凌駕する。アンドロイドの設計理念に従い、戦闘用として設定されていない限り、人間を傷付けないように出来る限りの手加減はするようになっている。しかし彼女は、徒手空拳で充分、普通の人間を圧倒出来る設定だった。
 その設定は、この老人を全ての危険から守るためのものである。が、同時に、老人の意思に反する者全てからも守ろうとしてしまう。それは、この老人以外の人間にとっては害にもなり得る。
 だから、そのセキュリティの解除コードだった。これを入力すれば、彼女は無力化する。そうなれば、この老人を守るものはなくなるはずだった。何も暴力的な手段を取る必要はない。彼女をどけて単に自らの手で車椅子を押すだけでいいのだ――彼はその瞬間を夢想し、内心ほくそ笑んでいた。
 しかし、彼が相対している女性型アンドロイドの口から、機械的な音声と内容の言葉が発せられた。
「解除コードに誤りあり。不正アクセスと見なします」
「…え?」
「あなたをマスターに危害を加えようとする存在と認識し、防衛プログラムに移行します――」
 途端、彼の視界が空転する。そして次の瞬間には背中から床に叩き付けられていた。鈍い音が広い廊下に響き渡る。周りで彼らの様子を伺っていた患者や病棟職員からどよめきが起こった。
 彼は背中に打撃を受け、呼吸が詰まった。しかし、それ以上の傷を負うだけの強さの衝撃は受けていない。息が出来なくなる事で数秒間行動不能に陥るだけだった。
 その息を求めて喘いだ所に、更に彼女から右腕を捻り上げられた。そのまま彼はうつ伏せに引っくり返され、床に身体を押し付けられる。アンドロイドは床に膝を立て彼の身体を跨ぐ格好になり、床に捻じ伏せる。右腕の痛みに彼の口から、悲鳴と言うには音量が足りない、情けのない声が漏れた。
「――僕は、彼女のマスターだよ」
 相変わらず調子は全く変わらない老人の声が彼の耳に届く。彼はアンドロイドに押さえつけられたままで顔だけを持ち上げた。車椅子に腰掛けたままの老人を見上げる。視点から考えると、今までとは全く逆の立場である。
 老人の顔には帽子の影が深く落ちている。その双眸は更にサングラスに隠されていて、表情を読み取る事は出来ない。
「只の老人が、アンドロイドのシステム設定を大幅に変更しているとは思ってもみなかったかい?君にも、久島にも、侮られたものだ」
 淡々とした声が続く。廊下はざわめいていたが、押さえつけられている彼の耳にはその老人の声はしっかりと届いていた。
 セキュリティコードはシステムの根幹に関わるものである。アンドロイドやプログラムに関するしっかりとした知識がなければ、当のシステムを破損して取り返しのつかない事態になるはずだった。――そんな設定を変更し、それが無事運用されているのだから、この老人は何者かと彼は再度思う。やはり部長が待ち望む人材だけあって、それだけの技術に優れているのか。

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