「睡眠導入剤をお使いになりますか?」
「…あれはあんまり好きじゃないな」
 声には心配の感情を浮かべつつも冷静な提案をする辺りが、やはりアンドロイドじみている。波留は隣に立つ女性に対してそんな事を思いつつ、目許を押さえたまま答えた。
 波留は特に自分の現状を喧伝はしていない。しかしそれなりに豊かな財力を背景に持つ老人を世話する病棟である以上、ここには毎日の定期健診は存在していた。それは簡単な問診と測定程度のものだったが、相手はプロの医師である。その体調や様子から、この患者があまり眠っていない事は医療担当も把握していた。
 そのために、睡眠補助のための薬剤は常日頃彼を世話する介助担当に渡される事となっていた。現在の彼を介助するのは病棟の人間ではなく個人的に用意されたホロンであるため、薬剤は彼女に定期的に出されて、彼女が管理している。
「しかし、今晩位はお休みにならないと」
「………そうだね」
 少しの沈黙の後、波留は素直に頷いていた。身体的な自覚は感じていないが、浅く短い眠りしか取っていない日数を鑑みるに、確かに限界だろうと思ったからだった。
 更には、ここで嫌がるあまり意地を張り無理をして、本格的に精神科医にでも回されては面倒だと言う計算も働いている。もしかしたら自分は本当に治療を必要としている身なのかもしれないが、彼としてはそんな面倒事は背負い込みたくなかった。
 ――僕には彼女が付き従っているんだ。本格的にまずいのなら、彼女が無理矢理にでも受診させるだろう。波留はそんな事を思う。
 すぐにホロンはスカートのポケットから薬剤のケースを出していた。そこから白い錠剤をひとつ取り出し、指に力を込めて半分に割る。
 錠剤には横にラインのような溝が引かれており、それに沿って力を加えれば簡単に割る事が出来るようになっていた。それはホロンのアンドロイドとしての力に拠り、更には介助人としてのコツを持っている事にも拠る。ともかく彼女は半分に割れた片方を摘み上げ、波留に手渡す。
 波留は受け取った指先に、錠剤の断面から零れたざらついた粉の感覚を覚えた。彼はその錠剤を、手にしていたコップの中に落とし込む。指先の粉も出来る限り冷水の中に落としてから、その指先を軽く舐めた。少し苦い味が口の中に広がる。
 それからコップに彼は視線をやる。底まで沈んだ錠剤の表面が徐々に水に溶け、剥がれてゆく。特に水溶性が高い薬剤ではないが、水に浸食されてその周りを白に染めてゆく様子を彼は少しの間眺めていた。
 そして彼はコップの縁を口につけ、傾けた。コップに半分程残っていた冷水を、薬剤ごと一気に飲み干す。まだ冷たいままであった水が喉を通るが、そこに薬の固形の感触はしない。冷たさに若干感覚が麻痺する。
 口の中に流れ込む水を感じなくなった時点で彼は口を離し、コップを下ろす。溜息をついた。口に僅かに苦い味が残るのを感じ、手で口許を拭う。額に伝う汗が気になり、その手を上げて更に拭った。
 ホロンが手を差し伸べてくる。波留はそれに気付き、彼女の意図を汲んだ。空になったコップを手渡す。
 彼女は微笑んでそれを受け取り、電脳経由でベッドを倒した。ベッドはゆっくりと起動し、波留の身体は再び横たわる。視界が天井へゆく。その視界の脇でホロンの手が動いている。彼女は波留の身体に掛かっているシーツを整え、彼の肩まで覆うように掛け直していた。
 シーツを掛けられ身体の位置が落ち着く事により、冷水で冷えた波留の喉や身体が少しずつ体温を取り戻してゆく。彼はゆっくりと瞼を伏せた。
 この睡眠導入剤は即効性ではなく、薬剤が吸収され効果を発するまでに少し時間を要する。彼としては、出来るならば薬剤が作用する前に自力で眠りに就きたかった。薬剤が脳に至り安静状態に置く、自然な眠気からは程遠い、重く冷たい感覚が、彼はあまり好きではなかった。

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