天井にある室内灯の光度は絞り込まれ、暗い室内を僅かに照らしている。壁際に配置されている観葉植物がその淡い光に照らされ、壁に細い影を落としていた。
 その時、波留真理は深く息を吸い込んでいた。彼の胸郭が大きく膨らむ。吸い込まれた空気と喉が摩擦を起こし、痛みを感じる。思わず彼は喉を押さえて咳き込んだ。
 横たわっていたベッドで身体を横倒しにする。折り曲げて咳き込みつつ、呼吸をしようとした。動かない両脚が上体の動きに従って折り曲がり、ずれる。汗が彼の額を伝い、伸びて顔に垂れ下がってきていた白髪の一房に染み込んでゆく。
「――マスター、大丈夫ですか?」
 波留が懸命に呼吸を試みていると、すぐに女性の声が彼の頭上から投げ掛けられてきた。
 外部からの干渉に、彼の意識が落ち着きを取り戻す。呼吸を短く落ち着かせつつ、喉を押さえて顔の向きを変えて見上げる。
 何時の間にかに彼のベッドの傍には、黒髪の女性が立っていた。眼鏡の透明なレンズの向こうにある瞳には心配の成分が含まれているが、それは過剰ではない。
「…ああ…何とかね…」
 彼女のいつも通り落ち着いている表情を見やっていると、波留の心も更に落ち着いてゆく。掠れた声で答えつつ、彼は笑って見せた。しかしその表情に疲れが浮かんでいる事は否めない。
 そして台詞が終わると同時に、彼はまた身体を折り曲げて咳き込んでしまう。それにより掛けられていたシーツがたわむ。長い白髪が顔に無造作に掛かった。
 傍に立つ女性の右手が伸ばされ、揺れる波留の肩に触れた。シーツがずれて露になった青の病院服に覆われているその肩をゆっくりと擦ってやる。
 彼女は介助用アンドロイドであり、ホロンと言う名称で人間達からは呼称されている。アンドロイドとは言えその身体は有機体で製造されており、その掌にも人間の体温が設定されていた。
 暖かな体温を帯びた手が優しくしっかりと波留の肩や背中に触れ、彼の冷たい身体を温める。そうすると彼の呼吸が落ち着いてきた。彼は強張った身体を意識して解いてみる。
 ホロンの手が優しく波留の背中を撫で上げ、肩から離れてゆく。彼は縮こまった上体を持ち上げ、そのまま背中をベッドに預けた。溜息をつく。腰の辺りまで落ちていたシーツを自分で手繰り寄せ、胸まで引き揚げて落ち着かせた。
「マスター」
 再び彼を呼ぶ声がする。ホロンは相変わらず彼の傍に立っているのだが、その両手にはコップがあった。どうやら今の波留の作業のうちに水を汲んできたらしい。彼女の両手が添えられたコップには、水がなみなみと湛えられていた。
 ホロンはコップを片手に前屈みになり、波留を覗き込む。と同時に彼が横たわっているベッドがゆっくりと起動した。リクライニング機能が作動し、彼はベッドの上で上体を起こす格好になる。ホロンがベッド付属の電脳コンソールに触れて操作したのだった。
「ありがとう」
 ベッドに身体を深く預けたままの波留は、少し笑ってホロンを見やった。右手を軽く伸ばし、ホロンからコップを受け取る。ひんやりとした感覚が掌を冷やした。
 それを口許まで導き、彼は透明で冷たい液体を喉に通した。咳き込み続けて痛い喉を冷水が冷やしてゆき、少し沁みるがそれも沈静してゆく。
 数口飲んだ時点で、波留はコップを口から離す。左手を口許に当て、軽く咳き込んだ。喉を落ち着かせる。そして口許をその手で拭い、言う。
「――何時間、眠ったかな」
「あまり寝てらっしゃいません」
 問われた側はアンドロイドにしては珍しく、具体的な時間で答えなかった。しかしマスターである彼はその返答にも頷く。彼の視線の向こうにあった部屋の壁にある掛け時計を見やっても、それは理解出来たからだった。
 ――おそらく返答する意味がない程に短い時間しか眠っていないからだろう。彼はホロンの考えを推測する。呼吸が落ち着き現状を把握すると、急に疲れに襲われた。彼は指で目許を押さえる。そしてその瞼に冷たいコップの角を押し当てた。熱を持っている印象がある瞼の向こうが冷やされて心地良い。
「身体にお悪いですよ。またお休みになって下さい」
 隣から投げ掛けられた声に、波留は思考を引き戻される。コップを瞼から外した。その辺りを指で押さえる。冷たい瞼を指で拭う。ホロンを見やるが、瞼をいじっていたために彼の視界が回復するのに一瞬間を必要とした。
「やはり、あまり眠りたくはないな…」
 波留は静かな声を上げた。彼の視界には、アンドロイドの心配そうな表情が映っている。そしてそれは、彼の発した台詞によって更に深まっていた。躊躇いがちに、しかし引く意思はなさそうな声色を用いて彼女は口を開く。
「でも、ここ数日、あまりお休みになってらっしゃいません」
「ああ、そうだね…」
 波留は何処となく他人事のような響きを持った声で答え、溜息をついた。
 そもそも眠れと言われても、今の彼は眠くはない。あんな夢によって叩き起こされ、神経が昂っている。そしてそれは彼が永い眠りから目覚めて以来、ほぼ連日の出来事となっていた。

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