2030年

 ネオブレインとの約束の日。私は自ら、舞台となる病院へと出向いていた。
 これは私が立ち会わなければ意味がない実験だった。実験内容を把握して、彼らと今後取引するかを決定しなければならない。そして私がその実験の検体の保証人である以上、立ち会わなければ人権問題になる。
 彼の病室で実験は行われる。一般家庭でも使用できるベッドと言うコンセプトである以上、そうすべきであった。私は広い病院の中、その道程は記憶していた。あれから彼は何度か転院を重ねているが、この病院においても私はもう何年も通い続けているのだから、当然の話だ。病院のスタッフとも顔馴染みとなっている。
 しかし、上手く歩けないのがもどかしい。右腕には松葉杖をつけ、右足を軽く引き摺りながら私は歩き慣れたはずの廊下を進んでいた。
 病室の扉を開け、足を踏み入れる。ネオブレイン側のスタッフが数名と、病院側の医師達が数名。共同で準備を整えようとしている所だった。彼らは一瞬私の方を見たが、すぐに自らの仕事に戻る。それでいい。
 部屋を見回すと、既に託体ベッドはそこにあり、波留も横たえられていた。これで彼の意識をメタルに固定し、外部から接続するダイバーがその中にダイブする。彼の意識はどんな状況になっているか現状全く判らないが、ともかくサルベージ出来るかどうか試してみる――これが今日のプランであったはずだ。
 私は多くは望まない。今回は駄目でも、一定の成果が挙がればいいだろう。とりあえず彼をメタルに繋ぐ事が出来たなら、大成功だと思ってここに来た。
「…久島君?」
 背後から声がした。
 私は杖を突き身体の向きを変え、振り向いた。今の私をこんな風に呼ぶのは、数少ない人間しかいないはずだ。
「――やあ、小湊さん」
 私は彼女の姿をそこに認め、微笑んだ。少し照れ臭い。18年振りか。
 彼女の姿は歳相応のものとなっていたが、上品な中年女性であった。自然かつ綺麗に整えられた容貌が美しい。
「――…あなた、電理研の久島課長なんですか!?」
 次いで、周囲から頓狂な声がした。どうやら、ようやく気付いたらしい。――いや、気付けと言うのが無理な相談だろう。
「久島君、その姿は一体…?」
 口元に手を当てて驚きを隠さない小湊さんの顔に、私は苦笑する。
「慣れるのに時間が掛かってね。結局右足はまだ不具合が出たままで、こうやって杖を突いて歩くしかなかったよ」
「いや、そうじゃなくて」
 慌てた風の彼女とは、以前見た事があったろうか。知己を驚かせるのは何年振りだろうか。あの頃の、彼との付き合いを思い出す。少々意地の悪い、子供っぽい、心地いい気分になった。
「いい機会だ。全身義体にしたんだよ」
 私は彼女に向き直り、そう告げた。
 技術の進歩と言うのは本当に素晴らしい。私はあれから脳核以外の生身の肉体を捨てた。そして過去の写真と遺伝子データを元に、あの当時の容貌の全身義体をオーダーメイドして、乗り換えたのだ。だから今の私の姿は、老いていない。あの事故当時のものに戻っていた。
 全身義体は単なる義手などよりも「乗りこなす」のは大変だった。本来なら最初のうちはリハビリめいた事をやるべきなのだが、何せ時間がなかった。だから結局右足が上手く動かせないまま、人前に出る事となってしまったのだ。老いた生身よりも動きがもどかしくなってしまっているのはおかしい話だが、これも慣れの問題だろう。そのうち収まるはずだった。この、あの当時の身体は、再び私のものとなるはずだった。
「――…波留君のためなの?」
 私の前に立つ女性から、震える声がした。流石だ。君は、すぐに私の意図を言い当てる。
 私は彼女をじっと見据える。美しい女性だが、20年近くの歳月を確実に感じさせる容貌だった。今の私の姿とは違う。
「…私にはこれ位しか出来ない」
 呟くように、しかし彼女には聴こえるように、言った。すると彼女は目頭を押さえる。小さな声がした。
「充分だと思う…それは私には出来ない事だもの…」
「君にそう言って貰えると、嬉しいよ」
 私は少しだけ、笑った。そして、彼女の肩をぽんと叩いた。あの頃、何度かこう言う事をやっただろうか。彼女の潤んだ瞳に映るのは、私の姿だった。写真の中にしか居ないはずだった、あの当時の私の姿。そして目の前の彼女は、老いている。
 ベッドの波留に視線をやった。彼もまた老いている。しかし記憶はあの当時のままのはずだった。だから、私はこの姿を選んだ。彼が眠りに就く直前の頃の姿を。
 この姿で、私は彼に手を差し伸べよう。あの時の船上のように。他のものは変わってしまったかもしれないが、私だけは変わっていない。それが彼の今後の助けになるならば。
「――さあ、始めてくれないか。実験を」
「ええ」
 私と彼女は見つめあい、頷いた。共に、強い意志を持った瞳をしていたと思う。

 
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