――それにしても。久島はケースの外に引っ張り出した義体の手を両手で包み込みながら、考えている。
 ホロンにも目的を一切説明しないままこの義体を使わせたとは言え、遠慮なく派手にやり合ってくれたものだと思う。彼の脳内に保存された格闘ログを見る限り、互いに本気で組み手を行っていた。
 実力伯仲の間柄であったからまだこの程度で済んでいるのであって、どちらかの技量が明らかに足りなかったならば果たしてどうなっていたのだろう。久島は視線を落として僅かに赤く腫れた義体の右頬を見やり、そして手の中にある指先を見た。グローブに保護されていたとは言え、少し痛んでいるようにも見えた。
 ――蒼井君も、結局事情に気付けなかったようだった。彼は洞察力に富んでいるはずだが、それを裏打ちする事になる情報が少な過ぎればどうしようもないだろう。久島にとっては、それは助けだった。
 ソウタはアイランドの停電騒動の際、メタルにダイブした若い波留を認識しているはずだった。電理研オペレーションルームで久島と同席している際の事件だったので、久島にもそれは把握出来ていた。
 しかしそれは、ダイブ中であったためにヘルメットを装着したダイバースーツのアバターを用いた波留の姿に過ぎなかった。そのアバターでは顔が殆ど隠れた状態なのだから、今日の義体と容貌が同一であるとは気付かなくとも仕方のない事なのかも知れない。同時に若い声も聴いているはずだったが、それだけの印象では記憶に残らないだろう。
 そしてソウタが若い波留の容貌や声を認識出来たチャンスは、その一度のみであるはずだった。だからこそ久島は彼に組み手をさせても構わないと思ったのである。おそらく、彼自身が組み手をしている相手が実は波留の容貌などだとは、思いも拠らないだろうと踏んでいた。
 ホロンは波留のメタルダイブをサポートする事が多いため、その声も容貌も理解しているはずだった。しかし、その事実は直接問われなければソウタには語られる事はない。
 もし気付いていたならば、彼には絶対にあのような本気の殴り合いは不可能だっただろう。そして今更気付かされてはどうなるのだろうかと久島は思う。
 もしかしたら波留や私に土下座でもしかねないだろうか。
 それはそれで巻き込まれてしまった若者には申し訳がなく、何より波留自身に知られては面倒な事になるために、久島はその辺をきちんとホロンには言い含めておいている。
 久島は溜息をついた。彼の視線の下には、眠っているかのような波留の顔を持つ義体が居る。そして彼の脳内で再生されているソウタの視覚情報ログにおいては、その親友の姿が縦横無尽に動き回っている。
 厳しい表情で相手の攻撃を絶妙に交わし、跳び、自分からも打ち掛かる。俊敏な動きはまるで舞を思わせた。波留自身は彼らのように格闘技術を磨いてはいなかったし、そもそも穏やかな性格で売られた喧嘩を買うような人間ではなかったはずだった。大体彼らが知り合ったのはそんな血気盛んな歳でもない。むしろ久島の方が血の気が多い時期があった。
 しかし、いざと言う時の動きの素早さは久島の記憶に残っていた。何よりその姿は若い頃の波留そのままである。生身の人間としては理想的な筋肉を持つ体型であり、その容貌を義体に転化してもそれは変わらない。むしろ際立っている。
 この動画は彼が見たいと熱望していたものではあるが、それを見ているとある種の空しさも感じさせる。それはあくまでもホロンであって、彼が望む親友ではないのだから。
 久島はゆっくりと手を下ろした。棺桶めいたケースの中に、義体の手を戻す。互いに義体のためにその表現が適当なのかは判らないが、人間のような感触を保っている手を、静かに身体の横に添えた。
 若干腫れている義体の右頬に軽く指を触れさせると、僅かに熱を持っているように感じられた。それは本当の感触なのか、それとも視覚と記憶によって脳が感覚を補っているのか、久島には判断しかねた。

[next][back]

[RD top] [SITE top]