「――それでは、失礼致します」
 白くぼんやりとした人工灯の元、電理研の制服に白衣を羽織った男の前で、黒髪の女性が深々と頭を下げていた。彼女が掛けている眼鏡の奥で瞼は伏せられている。
「ああ、君には感謝するよ」
 そんな男の静かな声を受けながら、彼女は軽く頭を上げた。口許には笑みを浮かべている。それは人間に好感を与えるためのプログラムの産物だった。
「自分の身体の感覚は取り戻したか?」
「はい。私はAIですので、脳核の換装さえ何事もなく終了すれば程無く復帰出来ます」
 アンドロイドの微笑を湛えた瞳が、彼を見上げていた。その黒髪に覆われている頭部に彼女の脳核が収まっている。それはつい先程まで、別の男性型義体に搭載されていた脳核だった。
 彼女のその服装はいつものように、黒のタイトスカートに長袖のシャツに首元にはネクタイを巻いているものだった。服装の乱れも目立った外傷もなく、今まで使用していた男性型義体のイメージは何処にも残されていない。
「蒼井君にも宜しく言っておいて欲しいものだが、少し事情が違うからな」
「はい、判っております」
 幸いと言うべきか、ソウタはホロンに「依頼主が誰か」とは尋ねてはこなかった。ホロンはそもそも電理研の所有物であり、ソウタとしては彼女にそう言う依頼を与える存在を特に問い質す必要性を感じなかったからである。自分の所属も電理研なのだから、秘密裏に処理されるべきテストの依頼を電理研から回されても当然だと認識していた。
 仮にそれらをきちんと訊かれた場合、ホロンは微妙に言葉を濁していた事だろう。彼女は依頼主を伏せるように命令されていたし、その依頼の真相を教えられてはいなかったのだから。人間の命令には忠実でなければならないホロンは、自分が語る事が出来る範囲でソウタの質問には答えなくてはならなかった。
 現在、ふたりはリアルではあるが殺風景な空間で会話している。狭くはないが四方を切り取られたような空間で、壁面は白い。彼らの向こう側の壁面には規則的に扉が並んでいて、その大きさは何種類か揃っている。
 彼らの傍にはストレッチャー状の台座があり、その上には大きな長方形のケースが置かれていた。彼はその上部に片手を置いた。透過されない白色の蓋状の板に手を滑らせる。その方に、軽く視線を落とす。
「君や蒼井君からのデータも受け取った。君は早く事務所に戻るといい。あまり遅くなると、波留には奇妙に思われるだろうからな」
 その台詞に、ホロンは顔を上げた。胸に手を当てて怪訝そうに問う。
「私はもう運搬のお手伝いをせずにいいのですか?」
 問われた方は、壁面に視線をやった。そこには丁度そのケースが入るだけの大きさの扉が備え付けられていて、台座の高さもそれに合わせられている。
「いや…もう、そこの金庫に戻すだけだからな。私ひとりの力でも何とかなるよ」
「判りました。マスターの元へ戻ります」
 ホロンはそう言って、深く頭を下げた。
「ああ。彼らにはくれぐれもこの件を話さないように」
「判っております」
 アンドロイドに対してマスターとシステム管理者の命令が競合し矛盾した場合、どちらがより強い縛りを掛けたかによって優先順位が決まる。その彼らはどちらも設定変更に長けており、果たして自分の命令がアンドロイドにそのまま通るかは判らなかった。しかし相手側がそれを強硬に知りたいと望まない限り、自分の方が優先されるだろうと彼は認識していた。
 ホロンは会釈をし、きびすを返した。白熱灯めいた部屋の灯りに背中を照らし出されつつ、彼女はそのままこの室内から出て行く。靴音と自動ドアの静かな音が室内に響き、それもやがては消えた。

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