ソウタの息はすっかり上がっている。ジムの天井は高く、程好い照明が彼に降り注いで来ていた。じっとりとした汗が筋となって顔を伝ってゆくのが判る。シャツの下を伝う汗の感触が少し気持ち悪い。
 ソウタは運動スペースの床に、仰向けに寝転がっている。大きく四肢を広げ、大の字になって寝そべっていた。手足が痛むのは組み手の直後ではいつもの事だった。まともに打撃を受けずとも、それらを交わすためにガードし続けた結果である。
「――蒼井様」
 不意に男の声がソウタの耳に届いていた。彼は視線をそちらに向ける。
 今までソウタと組み手を行ってきた義体が、微笑んで手を差し伸べて来ていた。軽く上体を曲げて屈み込み、彼を助け起こそうとしている。
「…音声通話か?」
 ソウタは「彼」の手を掴みながら、そう訊いていた。組み手前は電通しかしなかったのに、今回は義体の声帯を用いての会話を試みている。その差をソウタは怪訝に思っていた。
「はい。こちらのテストもしておくべきですので」
「そうか」
 穏やかな男の声を耳にしつつ、ソウタは義体に手を引かれるままとなっていた。ゆっくりと上体が起こされる。もう片方の手を床に着き、身体を支えた。
「動作確認にお付き合い頂きまして、ありがとうございました」
「いや、俺もためになったよ。礼を言いたいのはこっちの方だ」
 これは社交辞令ではなく、本当に痛感している事だった。ホロン以外の「相手」で組み手をする事が、ここまで違うとは思わなかった。メタルの格闘コミュニティでは見出せないような新たな発見が彼の身体に刻まれている。今まで知らなかった自分の癖や見出すべき相手の動作などが非常に参考になっていた。
 ともかく義体に手を更に引かれ、ソウタは腰を上げる。ゆっくりと立ち上がった。
 筋肉が少し張り始めているのを彼は感じていた。これからきちんとダウンをしておかなければ、明日以降に筋肉痛が来てしまう。あまりゆっくり休んでいる暇はなさそうだった。人間にもメンテナンスが必要なのである。
 そんな彼に対し、義体は相変わらず手を差し伸べていた。掌をソウタに対してかざしている。ソウタはその綺麗ではあるが大きな掌を見て首を傾げた。
「蒼井様。テストの分析のために、今の組み手における視覚情報を頂いても宜しいですか?」
「…ああ、構わないが」
 そう言う事かとソウタは理解した。掌の向こうにいる、笑顔の義体を見やる。その右頬は微かに赤く腫れていた。
 そう言えばソウタ自身も、自分の頬が微かに痛みを覚えている事に気付いた。お互い組み手の際に一撃喰らったせいだが、傷と言うのもおこがましい程度のものである。
 電脳化が進んでいる現代において、人間の記憶はデータとしてコンピュータなどと並列化が可能となっている。このように求めに応じて、脳内のデータを外部へ切り貼りする事も可能だった。
 従来の記憶とは曖昧なものだったが、電脳化が標準となっている現代では直前の記憶は鮮明なものとして各自の電脳に記録されるようになっている。それを定期的に保存しなければ徐々に劣化し、従来の記憶のように解けてゆくだけの話だった。
 今の動作確認テストにおいて、ホロン側のAIには自分の動作の記録が事細かに残されているはずだった。しかしそれだけでは足りない部分があるだろう。近接戦闘を行ったソウタ側の視点データも生かすべきだろうし、おそらくこのジム内に備わっているはずの監視カメラの動画も使われるのだろう。
 ソウタは頷き、再び片手を義体に差し出した。互いの手と手が重なり合う。ソウタは組み手を行っていた時間帯の視覚情報を自らの電脳からコピーし、それを義体へと送信していった。
 重ね合わされた掌が淡く光を発している。お互いに声を発せずに作業に集中する。
 ソウタの脳内でプログレスバーのダイアログが「送信完了」を告げる。それに彼はそっと掌を剥がした。義体が微笑んで頷き、謝辞を述べる。
「本当にありがとうございました」
「いや…」
 音声も外見も男そのものだが、中身はホロンである事にもソウタは慣れて来た。苦笑気味に「彼」に対してソウタは返答をしようとしたが、その時唐突に何か妙な気分が到来する。
 何となく、ソウタには訊いてみたい事があった。
「その義体、これから何に使われるんだ?一般流通品扱いか?」
 それはこの動作確認のテストに付き合った以上、自分にも訊く権利はあるだろうと彼は思う。そしてホロン側もその権利を把握しているらしく、微笑んで解答した。
「一般流通ではなく、全てにおいてのカスタマイズ品であるそうです」
「と言う事は、換装用の義体なのか、これからAIを搭載するのか…――」
 ソウタは義体の返答を耳にし、顎に手を当てて少し考えるような素振りを見せる。アンドロイドの換装に用いるにせよ、初期化状態のAIを搭載してセットアップから行うにせよ、容貌自体のカスタマイズ品を準備する時点で相当の財力と労力を必要とするはずだった。
 そんな義体の動作確認テストとは一体何なのだろう。しかも、戦闘用でもないホロンを用いての格闘訓練である。確かに彼女の格闘能力はデフォルトのアンドロイドからかなり上乗せされている状態だった。
 とすると、戦闘用の設定をしない上で格闘動作テストで、義体の運動性を極限まで引き出す目的と考えるのが妥当だろうかと彼は思う。他のAIを乗せての、別件での動作確認も行っている可能性も否定は出来ないのだから。
 只、彼には引っ掛かる点があった。
 義体が今発しているこの声に、何処か聞き覚えがあるような気がしてならなかったのだ。
 だから顎に手を当てて考え込み、記憶を手繰っているのだが、そのデータが見当たらない。既に完全記憶として保存される時間を過ぎ去り、断片化してしまっている時期に聴いた覚えがあるらしい。
 そもそも記憶しようと思って音声を聴かない限り、脳があるパターンに当て嵌めて処理してしまった上で記憶している可能性もある。そもそも義体の声帯である。電脳ネットやその他メディアなどで流通している美声を元にして設計されている可能性が高いのだ。深く考えるべきではないのかもしれないと、彼は結論付けていた。
 ソウタの隣では、男性型義体が柔和な笑みを浮かべている。良い表情であり誰もに好感を持たせる雰囲気を醸し出していると、彼は感じていた。
 その辺りも義体の設定なのだろう。本当に、義体とは便利なものだ――結局、ソウタの考えはまたしてもそこに行き着いていた。

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