電理研内にあるジムはそこまで広大な敷地を有してはいないが、手狭でもない。その奥まった部分にはある一定のスペースを確保してあり、床の色の変化で区画の違いが示されていた。 そこは総合的な運動スペースであり、その床は通常の床よりも弾力性を持たせている。しかし一般的なリングのマットよりは硬い。石や草などが取り除かれた通常の地面に近い印象を感じる硬さを保っており、それ故にこのスペースでは様々な運動に利用出来るようになっている。 その床の状態からして、格闘訓練への利用も珍しい事ではない。きちんと受身を取れば、床に落ちても然程身体にダメージは受けない。しかし、まともに落ちたならば、打ち所によってはかなり痛いし息が詰まる可能性があった。そんな絶妙なバランスが、実践的な格闘訓練には適している。 更には多少激しく動いたとしても、靴底はきちんと床に確保される。滑ったりする事はない。そう言う所も通常の生活空間に存在する地面に似ていた。 ソウタが身に着けようとしている格闘技術とは、試合で使用するようなものではなくもっと実践的なものである。そのために彼は、リングで訓練するよりもこう言う床の上で戦う方が性に合っていた。 ホロンであるはずの男性型義体とソウタは、その運動スペース内にて、ある一定の距離を取って向かい合っていた。まるで彼らの足元に開始ラインでも引かれているかのような、ふたりで示し合わせたように自然な行動だった。 「君から打ち込んできてくれて構わない」 ソウタはまだ構える事はしない。手に装着された指貫グローブを整えるかのようにいじりつつ、相対する義体に対してそう告げた。 ――…私から…ですか? ホロンの声をした思考が怪訝そうに、ソウタの電脳に響いてくる。それに呼応して、ソウタに向かい合う義体の男が声の調子と似たようなものを感じさせる表情を浮かべていた。 ソウタには、このコンビネーションが未だに馴染まなかった。軽く瞼を伏せ、首を傾ける。どうもこの男の顔を見ない方がいいのだろうかと思う。 「君もその義体に乗り換えたばかりなのだろう?いくら動作確認テストとは言え、その義体の感覚をきちんと計ってから本格的に動いた方がいいんじゃないのか」 彼としては淡々とした口調で告げたつもりだった。しかし何処となくぶっきらぼうであるのは変えられない。 人間が義体化した場合、義体化部分を自らの肉体として使いこなすためには、まずリハビリを必要とするものだった。今までの身体とは全く違う身体に慣れるために、その差異を生脳に理解させ合わせ込む作業が必要なのだ。義手や義足などでもその作業は必要とされ、目や耳と言った脳に直結する感覚器官ともなれば更に労力を要する。 肉体全てを義体に乗り換える全身義体化に至っては、そもそも本人の適性すらも必要とされる事となった。全身義体化した人間が「人形遣い」と呼ばれるのはそのためである。それらは義体施術が一般化しつつあるこの現代においても、詰める事が敵わない部分だった。 ある意味融通が利かない生脳である人間と違い、設定変更で全てをリセット出来るAIで思考するアンドロイドならば、全身を換装したとしてもそこまでの労力は必要としないものだった。そして彼らの外見設定はあくまでも義体に依存し、演じる性別すらAIの設定変更で対処が可能である。 それらはソウタにも判っているつもりだった。しかし、彼としてはやはり義体を乗り換えたばかりならば、すぐに100%の力で動くべきではないだろうと思っていた。その辺りも、彼がホロンをひとりの個性として認識している表れなのかもしれない。 ――判りました。 その電通と共に、ソウタの前に立つ男は頷く。すっと両手が上がり胸の前で構えられた。ゆっくりと指が曲げられ拳が形作られる。 隙がない構えだとソウタは感じた。そしてその構えは、彼にとってはほぼ毎朝見ている類いのものだった。彼の視界において、「彼女」の姿が、目の前の男にオーバーラップする。 しかし、軽い靴音がソウタの視界を現実へと復帰させていた。目の前の男が両脚で軽く跳んでいる。足首がきちんと動くのか、膝は着地の衝撃を受け止めているか、そんな事を確かめるかのような動作だった。規則正しいようでいてそうでもない音のリズムは、若干柔らかいはずの床でも軽く発せられていた。 |