出された紅茶は、相変わらずティーバッグで淹れたものと言われなければ判らない程度に、久島に良い香りと味わいをもたらしてくる。 もっとも、それを飲む彼自身も、自分がそこまでも紅茶通ではないのだからそう思えるだけであって、そうではない人々までもを誤魔化せるかどうかは未知数であるとは判っている。それでも、ともかく波留の紅茶が自分を満足させてくれると言う事実は、彼の中に厳然と存在していた。 紅茶を出した後の波留はやはり席に着く事もなく、今度は下げた久島の食器を洗っている。少しは落ち着けば良いだろうにとその背中を眺めやって久島は思う。 「――そう言えば、今日はデッキには出ていなかったんだな」 ふと思いついた風に久島はそう言った。いつもと違って髪を上げた状態の親友の頭に視線をやる。 波留は特に作業の手を止める事はない。振り向かずに答えた。 「そろそろ寒いからなあ…日本はもう10月だしな」 蛇口から出された細い水が食器に当たって弾ける音が、波留の台詞に混ざって聴こえてくる。 海を愛していると表現して差し支えがない波留は、仕事が終わった後でも着替えて観測船の甲板に良く出てきている。彼がデッキの上で海風に当たりながら海を眺めている状況を、このチームの人間は常々把握していた。 「君にしては珍しい事を言うんだな。暇な時には魚まで釣っているくせに」 紅茶を飲みつつ、久島は少し笑う。勿論普段から観測の邪魔にならない時点でしか釣りはやらないが、そこで得た戦果が食卓に並ぶ事も多かったのである。もっとも今回は日帰りの観測であるために、釣り道具は持ち込んでいなくともおかしい話ではない。 確かに10月の日本は秋風が吹いて来ていて涼しくなってきている。太平洋側であってもその印象は徐々に強くなってきていた。 しかし観測船の内部にある船室は設計上、海中に存在するために、1年中涼しい環境にある。そんな状況だが搭載された端末類の稼動のために、特に暖房が入る事はない。下手をすれば熱暴走対策として、更に冷房を入れられる事もある。そのために乗員は衣服で体感気温を調整するものだった。 そう言う事情から、デッキと船内の気温が近付いてきているならば、却って過ごし易いのではないだろうかと久島は思っていた。 波留は洗った食器を拭いている。そのまま棚に収納してゆく。生活音レベルではあったが、食器類が擦れて音を立てる。そんな最中に、呟くような声がした。 「…この辺の魚は、まだ釣らない方がいいんじゃないのかと思ってな」 その台詞に、久島は軽く瞠目した。すぐに目を細めるようにして、口からカップを外す。ゆっくりとソーサーの上に置いた。伏し目がちに揺れる赤い水面を見やった。この台詞から、彼は波留が何を言いたかったのかを理解していた。 今この観測船が留まっている場所は、かつて東京と呼ばれた場所から南に位置する海域である。そして波留の生まれ故郷は、その場所だった。 彼らが大学生の頃に、不幸な出来事の連鎖により東京全域は水没し、結果的に壊滅した。生き残った少なくない人々は、日本各地に移住し新たな生活を営んでいる。 水没した地域及び僅かに残った陸地には放射能物質が残留したままとなっていたが、日本国内のある複合企業体が開発したマイクロマシンにより除去が行われていた。公式にはその作業は順調に進んでいると言う事になっているが、未だ一般人の旧東京区画への立ち入りは不可能である。ようやく周辺海域に調査観測の許可が下り始めたのが4年前だったが、それでもその航行は関係機関によって厳重に管理されている。 波留の生まれ故郷は、現状そう言う状況だった。当人やその家族は幼少の頃には東京を離れており、波留の進学先も違っていた。そのためにこの出来事自体には巻き込まれてはいない。 それでも故郷が未来永劫喪われると言う未曾有の事態を目の前にしては、どんな人間もショックを受けるものだろう。東京消失からある程度の年月を経たあの4年前の観測でもそうだったはずであると、久島は当時を思い返していた。 それを、すっかり忘れていた。あの第一印象から、それは彼の重要な要素だったはずなのに――久島は黙り込む。 …4年前か。あれからもうそんなに経ったのか。或いはそれだけしか経っていないと言うべきか――。 波留が自分の傍に居る事が当然のような状況になっていたために、色々と忘れていた事があった。だから、先程の会話で自分の元から波留が離れてゆく未来を提示されては内心うろたえたのだろうと、彼は思う。 視線を落としていた赤い水面は落ち着きを取り戻す。湯気が微かに上がっている。久島はふと視線を上げ、室内を見回した。狭い船室には様々なものが置いてあるが、壁に掛けられたカレンダーに目が留まった。シンプルなカレンダーが10月を示している。彼は自然に今日の日付をそのカレンダーの日数表記の升目に追い――今日は何日だったのかに気付いた。 ――私は、1歳、今日で歳を取っていたのか。 |