「――引退したら、君は喫茶店でも開けばいいだろうにな」 数口食を進めた頃、久島はテーブル越しの波留の背中にそんな台詞を投げ掛けた。 ソースのみでも充分な味が感じられるために、彼は共に置かれた粉チーズなどは一切加えていない。調味料の類を足して味を調える必要がない程に旨い料理を波留は作ってくる事は、久島にとって認めざるを得ない事実である。だからこのような言葉が出てくるのである。本気でそう言った進路を勧めている訳ではなく、冗談レベルのものではあるが。 その時には波留は使用済みのフライパンを調理器の上から下ろし、簡易的な流しに置いていた。蛇口を捻って細く水を流しかけると、まだ熱を保っていたフライパンの表面が音を立て湯気を巻き起こす。 「そうだなあ。40過ぎたらそうするのもいいかもな」 軽く弾けるような音の合間から、波留は暢気そうな声の調子でそう答えていた。 その台詞に久島の手が止まる。パスタを掬い掛けていたフォークをそのままに、皿に置いた。軽い気持ちで言った台詞に思わぬ反応が返ってきていた。それに即答は出来ず、僅かに沈黙を含ませた後に、久島は静かな声で言う。 「…早過ぎるだろう。その選択は」 「そうか?そんな歳にもなれば、潮時だと思うんだけどな」 振り向かず、波留は手元でフライパンの汚れを落としながら、淡々と答えていた。意識はフライパンの方に行っているらしい。 フライパンの中に軽く水を溜め、スポンジで擦る程度で汚れは落ちてゆく。海水を濾過すればいいとは言え、手間がかかるし装置を起動させれば電力を消費する。結果的に観測船においても有限の資源である水を出来る限り無駄にしないような状況になっていた。フライパン自体がそう言う素材で造られているのも理由のひとつだが、波留が焦げ付きなどを作らないように気を遣って調理してきている成果でもある。 久島は視線を落とした。皿に半分程度残っているマリナーラソースのパスタを見やる。フォークを取り上げ、軽く絡めた。一口食べる事で時間を置き、喉の奥に追いやってから再び台詞を継いだ。 「その40過ぎた頃には、ダイバーを辞めるつもりか」 「まさか」 時間を置いてから投げ掛けられた久島の台詞に対して、波留は即答だった。その短い台詞からは意外そうな響きが伝わってくる。 彼は洗い終わったフライパンを流しの上に立てかける。まるで地上の台所のような扱いだったが、今日の海は穏やかであり船も揺れていないために、倒れる事はなさそうだった。 そして濡れた手を着ているエプロンで軽く拭いつつ、久島の方を振り返った。苦笑気味に言う。 「辞めるのは電理研だけだよ。そんな歳にもなれば、今みたいに実験に関わるダイバーをやるのは辛いだろう。この体力を保てるかは判らないし、今のように厳密なデータを持って帰って来れなくなったら、俺はもうここでダイバーをやる意味はないからな」 食を進めながら久島はその台詞を訊いていた。ダイバーを辞めた波留は一切想像はつかなかったが、電理研のみを辞めている波留ならば久島にも充分に想像が出来た。波留が言うように、専任の職業ダイバーは長年続けるようなものではないだろうと思いが至る。 もっとも、今のこの男の体力ならば、40過ぎても充分に一般のダイバーのレベルを遥かに超えているだろうとも思えた。しかしそれでも波留にとっては全盛期の自分からはレベルが落ちている状況には変わりはなく、実験体としてのダイバーを辞めるには充分な理由となり得るのだろう。他に代わりとなれる人材が育っているか、そう言った別の問題が浮上してくるが、波留にはそこまで気を回す筋合いはないのかもしれない。 「それで、ここを辞めた後どうする?」 「このペースで稼いでいたらかなり資金も貯まってそうだしな。ダイバーショップを開業するには充分だろう。ついでに調理師免許も取ればその店で軽い食事も出せるし、いいんじゃないか」 笑顔を浮かべて言う波留のそれは、本気とも冗談ともつかないものだった。何処まで本気でそう言う人生設計を繰り広げているのか久島には把握出来ていないが、確かに資金面では充分にクリア出来そうだとは認識出来た。互いに似たような給料をこの電理研からは得ているはずであったから、自分の口座を思い浮かべたならある程度は予測がついたからである。 相当な国家公務員に値するような立場であるからには、責任と共にそれだけの評価がついてきている。更に、その正当な評価から得た金額を消費する機会も、こう忙しくては殆どない。 強いて互いの違いを指摘するならば、波留はプライベートでもダイビングをやっている点だった。海洋調査を優先するために競技としてのダイビングからは既に身を引いていたが、趣味としては続けている。 あまり取れない休みの日に何処かの海に潜りに行く際に、いくばくかの金銭を消費しているはずではある。しかしそれも、自分達の稼ぎからすればはした金だろうと久島は思った。 波留の状況を、久島はそう言う風に理由付けてゆく。理性では納得しようとする。しかし、何処となく子供じみた想いが彼の心中の深層から沸き上がってきていた。それは素直に口から出てゆく。 「私の研究はどうなるんだ」 「何だよ。後10年もあれば、人工島建設もとうの昔に決着がつくだろ?」 「まあ、それはそうなんだが…」 久島がその先に来るべき台詞を口篭った事により、会話が途切れた。 彼は溜息をつく。自分が妙に我儘な子供のような感情を抱いていた事に気付いたからだった。それに対して波留が口調は穏やかながら意外そうな声で理性的な返答を寄越した事も、その気分を増幅させている。 久島はフォークを再び下ろす。傍に置かれていたコップを手に取り、口をつけた。ミネラルウォーターの冷たい感触が喉を通る。 ――多芸なのも考えものか。冷水を感じる事で冷静さを取り戻すように努めつつ、久島はふとそう思っていた。 波留はダイバーとしての腕前は勿論の事、元々は研究者待遇で電理研に招聘されただけあって、現在でも実験から獲得したデータ類を見ての理解も早い。他の専任ダイバーとは一線を画した存在だった。 かと言って研究者にありがちな専門馬鹿でもなかった。その態度は常識的な部分からあまり道を踏み外す事もない。もっとも、才能溢れる人間の故か何処かしら妙な部分は保持しているのだが、それは他人に酷く迷惑を掛けるような部類でもなく「個性」と呼べる代物だった。 生活面においても一般人レベルであり、家事全般はそつなくこなす。電理研職員として垣間見る事が出来る部分としては、そこそこ旨い料理を振る舞ってきていた。そして本場の人間達に世話になった経験から、お茶の類を淹れる事に関しては、素人にしてはレベルが高い。 無論、プロとして稼ぎを得る事が出来るレベルに至っているのは、実際に職に就いているダイバーとしての能力であり、元々の職であった海洋学者としての能力のみだろう。その他の特技はそれらには及ばない――ダイバーと海洋学者としての顔が、比較対象としてあまりにレベルが高過ぎるかもしれないがと久島は思わないでもない。 それでも彼には、その料理の類に関する腕前も、調理師免許を取ればダイバーショップのついでとしてやる分には、常連客がつくレベルであると思えた。だからこそ久島もそれ以外の人間も、冗談めかして喫茶店開業の誘いの言葉を持ちかけてきているのである。 彼は何でもそつなくこなす。それは多芸である――そんな才能のみの問題ではない。 それだけたくさんの事に興味を持ち、追求出来ると言う点が重要なのだ。好奇心旺盛な人間なのだろう――久島は何度となく波留と言う人間に対して抱いた結論に、やはり今回も至る。 研究にしか興味を持つ事が出来ない私とは、全く別の部類の男だ。 だから、何時までも私の元に縛り付けるのは無理な相談か。 彼がその口で言ったように、人工島建設に目処が立った時点で、この関係にも区切りをつけられるかも知れないな――人工島建設のみしか私に付き合ってくれないのは、少し寂しいものがある。もっと別の研究も一緒にこなしてみたいのだが、それは私の我儘か。 その寂しさとは、このような才能を失う事に拠るものなのか。或いは波留のこの個性と別れる事に拠るものなのか。少なくとも、今現在の久島には判断がつかない。 そんな事を考えつつ、久島は淡々とパスタを口に運んでゆく。彼のリクエストにより、波留によって調理された量は一人前よりも少ないものだった。そのために、早食いとはとても言えないペースであっても、短い時間で彼の食事は終わりつつある。 久島の状況をさり気なく視界に入れて確認していた波留は、電動ケトルを手に取った。それには、時間を置いた事で既に保温ランプが点灯している。それを傾け、ティーカップに沸いた湯を注いだ。その湯でカップを軽く温める。 それからティーポットにゆっくりと湯を注ぎ入れ始める。中にある茶漉しの金網に入れていたティーバッグにその湯が当たり、徐々に香りが醸し出されてゆく。 海は穏やかで観測船も全く波に揺らされる事もなく、この一室も静かなものだった。紅茶の漂う香りと言い、まるで地上に居るものと印象は全く変わらない。 |