「――波留」
「何だ?」
 久島の呼びかけに、波留は相変わらず振り向かなかった。食器を片付けた後には冷蔵庫に色々な物をしまっている。その背中に久島は静かに台詞を投げ掛けた。
「………これからも、宜しく頼むぞ」
 波留の動きが止まる。冷蔵庫の扉を閉め、久島の方を振り返った。きょとんとした顔がそこにある。
「何だよ、唐突に」
 言ってから、その顔に笑顔を浮かべた。自らの後頭部に手を伸ばす。手探りでバレッタの持ち手を取り、押さえを解きつつ髪から引き抜いた。そのまま結ばれていた後ろ髪が下に落ちる。
 そのバレッタをエプロンのポケットに差し込む。そして前髪を掻き上げた。今まで上げていた事で落ち着かないのか、片手で結んだ後ろ髪を掴み、引っ張って撫で付けた。
 そんな波留の様子を久島は見ていた。紅茶に口をつけ、下ろす。そこにあった液体を飲み干していた。
 彼は今ではすっかり飲み慣れた紅茶の味を感じつつ、長いようで短いような、或いは逆とも言えるようなふたりの日々を思い起こしていた。それは何時までも続くように思えていたが、そうでもない事にも気付かされる。歳を取るという区切りの日から、重ねた年月に思いを馳せてゆく。色々な思いを抱きつつ、彼は言葉を発した。
「私は君を信頼している。私には君が必要だからな」
「そりゃいつも高い評価をどうも」
 波留はにこりと笑った。今までと同じく、あまり真剣に取り合っていないような応対を見せる。それに久島は少し鼻白んだ。こちらはいくらか真剣に気持ちを告白しても、相変わらず気楽な印象でしか受け取ってくれないらしい――そんな事を思った。
 しかし波留は久島の表情を全く気にしない。またティーポットを取り上げ、久島に見せ付けるようにする。そして楽しそうな笑みを浮かべ、言った。
「紅茶、もう1杯飲むか?」
「…いや。仕事に戻る」
 久島はそう答え、テーブルに手をついた。椅子を引き、立ち上がる。船室の床と椅子の足が擦れ、音を立てた。
 波留は頷き、久島の前にあるカップ一式を取り上げる。片手で引いて下げた。そのまま振り向き、流しへ向かう。
 立ち上がった久島は引いた椅子の背もたれに片手を掛けた。椅子を戻そうとする仕草を見せるが、そのままの姿勢で波留の背を眺めた。
 今まで上げていた長髪は癖がついていて、その結びは若干歪み乱れている。その彼が流しにティーカップを置き、水で軽く洗い流し始めていた。その動きに結ばれた髪が微かに揺れる。
 久島はしばし波留のそんな姿を見ていたが、やがて椅子を戻す。テーブルをちらりと一瞥し、隅に置かれたままになっていた書類ケースを見る。おそらく自分が退室したら、またこれを広げて色々始めるのだろうと踏んだ。ならばあまり邪魔はしない方がいいのだろう。
 何より自分の手元にも、午前中の観測によってこなすべき仕事は溜まっていた。互いに陸に上がるまでにはある程度の算段はつけておかなければならない。穏やかな食事の時を過ごせたのはいいが、立ち止まっている場合ではなかった。
 ――こんな時間は何時までも続くのだろうか。私は、続いて欲しいと願っているのだろうか。
 彼は、そこまでは思っていないのだろうか。
 船室の扉までの短い道程の中で、久島はそんな事を思った。
 とりあえず、夜になって陸に戻ったなら、今晩は飲みに付き合って貰おうか。どうやら彼も私が今日、歳を取った事など全く知らないらしいから、それを口実にでもして誘ってみるか――まあ、この仕事に目処がつかなければ、それ所ではないのだが。
 久島は船室の扉を開け、身体をくぐらせる。その扉を閉め切った時、室内から微かに届いていた蛇口からの水音は掻き消えた。
 
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