波留は、ひとつに重ねて纏めた書類をケースの中に収め、そのケースをテーブルの隅に置いた。それから椅子を引いて席を立つ。
「折角だから俺が最後の仕上げをやってやるよ」
「今日は何を作ってくれたんだ?」
「長期観測じゃないから、大した食材は持ち込めてないからな。普通にパスタだけだよ」
「例のソースのか?」
「そう、マリナーラ」
 久島と会話を交わしながら波留はテーブルを回り込む。向こうの椅子に引っ掛けて置いてあった紺色のエプロンを着た。そしてポケットに入っていたバレッタを後頭部に差し込み結んだ後ろ髪を上に持ってゆく。
 入口と反対側の壁面には様々な棚が置いてあり、その一角には簡素な流しと電化された調理器具が設置されている。と言っても家庭用の電子レンジと冷蔵庫や1基のIH調理器程度であり、ここに乗船している人間達からまるで大学の研究室を連想させるような代物に過ぎなかった。
 波留はそのIH調理器を電源を入れた。棚からフライパンを取り出し、調理器の上に置いて熱し始める。しばしそのままにしておいて、冷蔵庫を開け、大き目のタッパーを取り出してゆく。
 久島は椅子に座り、そんな親友の様子を眺めていた。そこで口を挟む。
「――おい、私にはあまり量は必要ないからな」
 その声に、タッパーのひとつの蓋を開けに掛かっていた波留はちらりと視線だけを後ろにやった。
「じゃあ半人前って量でいいか。お前は元々少食だって知ってるから、作っておく量は調整しておいたけどさ」
 彼は言いながら蓋を取り去ったタッパーをフライパンの上に傾け、スプーンで流し込んだ。その中身は赤い液体状のもので、所々に固形めいた部分もある。
 それらがフライパンの上に着地すると、音を立てて香ばしい匂いが漂ってきた。主成分はトマトの酸味の強い香りではあるが、にんにくの風味も若干利いてくる。
 久島はあまり食に興味がない人間であり、自他共に認めるように食が細い人間でもある。しかし、出来得る事なら旨い食事にありつきたいと言う本能は失っていない。だからこのような香りには、彼とてある程度は食欲を刺激される思いがする。
 実は彼は特別食事をしたくてやって来た訳ではない。只そう言う時間が到来したからであり、オペレーションルームの中では自分が最後まで食事をせずに残っていただけのようだったから、他の人間の手前もあって今更やってきただけだった。
 久島としては、水の1杯でも飲んで少し休憩して戻るだけでも良いと思って食堂代わりの船室を来訪していた。実際、他の日ならばそうしていたはずだった。
 しかし今日は波留が料理当番であり、しかも彼がその場に居たものだから、こんな状況になってしまっている。トマトベースのソースが温められて発してゆく良い香りに感覚が曝されてゆくと、当初の意志とはかけ離れた心境になってゆく。波留が料理当番の時には大抵そんな状況になるのが常であり、久島にとってはそれが不思議な事だった。
 フライパンの中でソースがぐつぐつと音を立てるようになった頃に、波留は別のタッパーからパスタを投入する。パスタは、水と電力の節約のために、一度に全ての量を既に茹で上げていた。そこから今までの人間が取り分けて食事をしてゆき、久島の分が最後となるはずだった。
 しかし現状において、一人前とまでは行かないが、若干余りが発生している。ソースのタッパーでも同様の現象が発生していた。それらは、後ろから遠目で見ている久島からも見て取れた。
「余りも一緒に温めて、君が今ここで食べるといい」
 それは久島としては親切心で言ったつもりだった。相手は食事を摂らないのに自分だけ食事をするのも奇妙な感じではあるし、気を遣ってしまう。何より夕方には帰港する以上、この時点で余らせても意味がない事だったからである。
 だが波留は振り向かない。フライパンを揺らしつつトングでパスタとソースを絡めてゆく。
「俺、食事を管理しているからさ。今はいらないよ」
「そうか」
 そんな返答を寄越しつつ作業をしている親友の背中を見やり、久島は首肯した。
 波留は専任ダイバーであり、その優れた身体能力を用いて仕事をする立場の人間である。それだけに、身体の管理は大切であり仕事の一部だった。プロスポーツ選手のように酷く厳密に制限しなければならない訳ではないだろうが、それでも気を遣う部分はあるのだろうと久島は理解していた。
「しかし、それでは余ってしまうな。捨ててしまうのも勿体無い」
 何気ない口調で久島はそんな事を言った。彼は食に興味がない人間ではあるが、食材を無駄に消費してしまう行為を美徳とは思えない人間でもあった。そう言う一面では食に対して健全な一面を保ち続けている。
「いや。船が陸に着く頃までには、俺が責任持って夕食として食べておくさ」
 その波留の言葉に、久島は口を半開きにしてしまう。半ば呆れたような口調で、台詞が突いて出てくる。
「…2食同じ物を食べるのは、健康管理としてどうなんだ」
「別に構わないんじゃないのか。悪いものは入れてないしな」
 あっさりとした答えが波留から返ってくる。――この料理を作った当人が言うのならば、栄養面では良いのだろう。しかし、これは本当に食事の管理に気を遣っているのだろうか。久島は内心首を捻らざるを得なかった。
 
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