「――うわ」
 不意に波留の声がした。軽くびっくりしたような感じだった。何事かとミナモが反応する。彼女が居たのは同じテラスのテーブルなので、波留が居る場所にはすぐに辿り着けた。駆け寄って訊く。
「どうかしましたか?」
「いえ…猫が」
 波留の台詞にミナモがそちらを見ると、波留の膝の上に猫が丸くなっていた。相変わらず眠っている。――いや、ここに移動したと言う事は、一旦起きたと言う事なのだろうとミナモにも判る。
「あれ?この子どうしたんでしょう?」
「さあ…日当たりが悪くなったんでしょうかね。今まで彼が居た所は」
 波留が床を見て、ミナモも釣られてそちらを見ると、猫が今まで居た付近には車椅子が作り出す影が落ちていた。
「波留さんに懐いたんじゃないんですか?」
 楽しそうな笑顔を浮かべたミナモの台詞に波留は何とも言えない表情になる。厭と言う訳でも、嬉しいと言う訳でもない、微妙な表情を。
 それを隠すように、波留は俯いた。膝の上に鎮座した猫を見る。
「…動けるんじゃないか。お前」
 彼はそう言って、掌で猫のその背中を撫で上げた。猫は相変わらず動こうとはしなかった。
 ミナモはその場にしゃがみこんだ。テラスの板張りに膝を着き、波留の車椅子の肘掛けに手を乗せる。猫の顔の位置に彼女の顔を持ってきて、視線を合わせようとしたが、やはり猫は首を曲げて丸くなって眠っている。
「この子、波留さんに懐いてますよ。やっぱり」
「そうなんですかね。僕には良く判りません」
「絶対、そうですよ」
 ミナモの手が猫の毛並みに触れる。そっと撫で上げると、猫の背に置いたままの波留の手にも当たった。
「――波留さんって、猫飼った事あるんですか?」
 ふと、ミナモは猫の背中を撫で上げつつ、そんな事を訊く。波留は視線を下に向けた。彼もまた、片手で猫を撫でた。若干獣臭いが、毛並みの感触は心地良く思える。
「いいえ。何せ仕事上、旅が多かったものですから、動物を飼うのは難しかったですね」
「子供の頃もですか?」
「………どうだったでしょう。昔の話過ぎて、忘れてしまいました」
 少しばかり長い沈黙の後、波留は空を眺めて言った。空では太陽が人工島の建築物を照らし出している。
 波留の台詞にミナモはちらりと彼を見上げる。何か、昔の話を訊けるのではないかと思った。しかし話したくない事もあるのかもしれないと彼女は思った。
 ミナモは目を細める。くすりと笑い、猫を撫で続けた。猫を覗き込む格好が続いているために、彼女の顔は車椅子の膝掛けに乗せられる状況となっている。そのまま彼女は寄り添うように、車椅子に身を預けた。
「――夕方だけど、陽射しがまだあったかくて、気持ちいいですね…」
「そうですね。夏はまだ先のはずですが」
 うとうとしつつミナモが言えば、波留も目を細めて言う。
 人工島やアイランドは緯度が低い場所にあるために、基本的に温暖な気候である。それでも、春の寒さは早くも終わるのかと思わせるような暖かさだった。
  
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