猫は波留の事務所まで連れて来られたが、ホロンに抱かれたまま眠っていた。ひとまずホロンはその猫を応接間の床に寝かせ、キッチンに移動する。
 キッチンにて、ホロンは猫に何か与えられるものがないかと探していた。彼女のAIには動物の世話などの知識は備わっていない。そのために、彼女は一般論でも良いのでひとまずメタルで検索してゆき、冷蔵庫の中身と当て嵌めていく。
 が、応接間の波留の電脳操作により自動的にテラスへのガラス窓が開けられると、動こうとはしなかった猫はのそりと歩き出す。波留が呆然と見送る中、猫はゆっくりとした歩みでテラスへ進み出る。そのまま陽当たりが良好な場所を見つけ出し、そこで丸くなり、動きが止まった。
 波留はその猫の動きを応接間から見やっていたが、動かなくなった後に溜息をついた。本当にこの猫は何なのだろうと彼は思う。車椅子の肘掛けを指先でとんとんと軽く叩き、ぼやくように言う。
「…全く、意思の疎通が出来ないのが昔は当たり前だったんだがねえ。今ではそうではない事がもどかしい」
 人間同士ならば、お互いがそう望めば掌を合わせる事で与えたい情報を相手に与えられるし、逆も然りである。それが現在の人工島の常識だった。50年間眠っていた彼もまた、その利便性溢れた常識に染まりつつある。
 波留のぼやきを耳にしたキッチンのホロンが顔を上げる。彼女は今、冷蔵庫の中から出した牛乳パックを手にしていた。猫に人間用の牛乳をそのまま与える事はあまり良くないらしいのだが、少量なら大丈夫とのメタルの検索結果に基いた行動だった。
「猫などの動物の脳にナノマシンを注入する事は理論上では可能ですが、彼らの言語は人間には理解する事が出来ませんからね」
 ホロンは言いながらプラスティックのトレイを取り出し、牛乳を少し注いだ。パックの中の牛乳はまだたっぷり入っている。
「深層意識まで介入できるメタルの海に潜ったなら、それも可能になるのだろうか?」
 波留が顎に手を当てて呟くように言った台詞に、ホロンは淡々としていた。トレイをキッチンに置き、波留を見て言う。
「現在依頼されている案件もありませんし、試してみますか?」
「…いや、やめておこう。こんな事でダイブして、後でメディカルチェックしに電理研に行く羽目になったら、どんな風に久島に怒られる事やら」
 波留は苦笑して手を振った。まさか本気にされるとは思ってもみなかったのだ。ホロンのAIはアンドロイドにしてはかなり人間味に富んでいるのだが、こう言う答えを返された時には波留は「彼女はやはり人間ではないのか」と不意に気付かされる。
「過去から人間にとって動物の意思の把握は念願のようですからね。メタルで検索するに、鳴き声を翻訳すると言う名目の首輪もあったとかなかったとか」
 淡々とした説明風のホロンの台詞に、波留は視線を上げた。彼はメタルではなく、自分の頭の中を検索する。と、微かに思い出せる事もあった。思わず目を細める。懐かしい気持ちになった。
「ああ、僕が子供の頃に、確かにそんな玩具があったなあ」
「玩具――ですか」
 ホロンの声には意外そうな響きがある。メタルにはなかった情報なのだろう。
「そう、玩具。その程度の信憑性だよ。そしてそう言う念願は、時代が進んでも叶わないままだったのかな」
 彼はそう言って薄く笑った。
  
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