波留は冷める前にコップの中にある液体を全て飲み干していた。注がれた量はそれ程多くなかったために、老いた彼の身体にもそれだけを受け容れる事が出来ていた。暖かい液体を身体に取り入れると、身体も温まってくる。冷たかった指先も今では血流が回復していた。
 彼がコップを下ろすと、久島が手を差し伸べた。波留はその手にコップを渡す。陶器に僅かに帯びたままであるコーヒーの熱を久島の義手に存在する感覚点が感じ取る。彼はそれをテーブルの上に戻した。そんな作業をやりながら、彼はさりげなく問う。
「これからの予定は?」
「僕は特に何もない。大人しく事務所に帰るよ」
 その言葉に久島は若干相好を崩す。振り向き、波留に言った。
「そうか。良かったら私の部屋に寄って行かないか」
「…君は意外に暇なのか。もしかして」
 波留の声は若干呆れていた。目の前の男は電理研の統括部長であり、この人工島を代表する人物のひとりであるはずだった。その立場は肩書きだけではなく実際にメタルの開発者として実務に携わっているために、多忙であるはずである。
 なのだが、波留に良く付き合ってくれる人物でもあった。そのため波留には親友の肩書きがたまに実感出来なくなる。
 ともあれ彼は、上から数個開いたままだった自らのシャツの前のボタンを閉じた。ふと室内を見渡すと、検査前に羽織っていたベストは壁のハンガーに掛けられている。どうやら検査のためにベストを脱がされ、シャツの前も開けられていたらしい。そのままにされていたのは、やはり眠っていたために衣服を緩めたままにされていたのだろう。彼はそう推測した。
 そんな風に顔を巡らせてゆくと、彼の白髪がそれに着いてくる。伸びた後ろ髪が首筋や肩に掛かり、動く。波留は顔を傾けて自分の後ろ髪を見た。
 ――結ばなくてはならないな。彼はそう思い、髪を自らの手で梳く。今まで眠っていて乱れたからか、指に引っ掛かりを感じた。強く引くと髪を傷めるために無理にいじろうとはしない。
 ふと気付いたように波留は視線をあちこちにやる。しかし彼の目当てのものは見当たらない。だから事情を知っているかもしれない室内の人間に尋ねる。
「久島。僕の髪のゴムが何処に行ったか知らないか」
「ああ…ここにある」
 言いながら久島はテーブルの上の小物入れを開けた。指に引っ掛けてそこから黒い髪留めのゴムを取り出す。
 波留はそれに頷いた。右手を久島の方に伸ばす。それを受け取ろうとした。
 しかし久島はそのゴムを指に引っ掛けたまま、自分の手の中で弄んでいた。波留はその様子に訝しげに問う。
「何をしているんだ」
 その声に久島は顔を上げる。波留の方を見て言った。
「たまには私が結んでやるよ」
 久島が黒い髪ゴムを右手首に通すのを波留は見た。それに少し戸惑う。
「…僕はいつも自分でやっているからいいよ」
 彼は50年前にも似たような長髪を保っていた。黒髪が白髪に変わったりもしたが、自らの後ろ髪を結ぶと言う行為は彼にとって有り触れた日常だった。だからわざわざ他人にそれを任せると言う意識に至らない。
 久島は自らの手首に納まった黒いゴムを物珍しそうに見ていた。そのゴムは少し型がついており、彼の手首に軽く絡み、手を動かしても滑り落ちる事はない。
 無造作なゴムの結び目に何本か白い髪が絡み付いている。彼はそれを発見し、左手の指で髪の毛を摘み上げようとした。しかしどうにも上手く行かない。
「いいじゃないか。やらせろよ」
 ゴムとそこに残った髪の毛としばし戯れた久島は、その手元を見たまま楽しげに笑う。表情にそんな感情を見せる事が珍しい久島のそれに、波留も少し笑った。
 
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