波留はベッドの上で両腕を伸ばした。息を吐き出しつつ、伸びを打つ。背筋を伸ばすと心地良い。しかしシーツに覆われている彼の両脚は動く気配はなかった。
 上体に伸びた筋肉を感じた後、彼は身体を弛緩させた。腕を頭の向こうに投げ出す。伸びた掌に、ベッドの上で広がっている髪の感触を覚えた。そう言えば頭に結び目の出っ張りを感じない。彼自身には解いた覚えがないので、検査中にでも解かれたのだろうと考えた。
 波留は視線だけを久島に向けて、訊く。
「僕の脳に、特に異常はないんだろう?」
「まあな」
 言いながら久島はテーブルの上でコーヒーポットを持ち上げた。同じくテーブルの上に用意していたコップにその液体を注ぐ。  コーヒーメイカーにセットされた豆や水が最初から少なかったのだろう。ポットに抽出された液体は少量であり、そのコップに全てを注ぎ入れられていた。
 彼はポットをコーヒーメイカーに戻し、次いでコップを持ち上げる。持ち手に指を通し、波留の前に差し出した。
 波留はベッドを探り、その操作用電脳にアクセスする。彼はそこにリクライニング機能を探り出し、それを動かした。上体を起こす格好となり、久島と並ぶようにする。手を伸ばせばコップを受け取れる位置まで身体を起こし、彼はそれを受け取った。両手をコップに添える。
 波留はコップの陶器越しに若干の熱を感じた。波留が両手でコップを受け取った事を確認し、久島の指が持ち手から離れる。波留はそこに自分の指を通した。コップを顔に近付けると芳醇な豆の香りを感じる。そこには黒い液体が湯気を上げてたゆたっていた。その水深はコップの中程である。
 その香りを味わった後に波留はコップに口をつけた。傾けて一口飲む。熱い液体から旨みのある苦味が感じられ、彼の口の中に広がる。
「ブラックでいいんだろう?」
 久島の台詞に波留は動きを止める。視線を上に向け、久島を見た。その瞳には軽い驚きがある。
「ああ。覚えていてくれたのか」
「当然だ」
 親友からの驚きを受け止め、久島は口許に笑みを浮かべて言う。波留はそれを見上げ、再びコーヒーを口の中に含んだ。良い香りと苦味が眠気を彼の身体から追い出してゆく。
「君は飲まないのか?」
「私は全身義体だからな。それは飲めない」
「そうか。こんなに美味しいのに、残念だな」
 50年前からの親友とは言え、そのよりを戻してからまだ1ヶ月である。波留は現在の久島の事情をまだまだ把握していなかった。
「私はもうそんなものを飲まなくなっていたからな。淹れたのは30年振りだぞ」
 久島にとってはこんな事をしたのは、生身を捨てて以来だった。今回だけではなく、波留が目覚めてからは、生身であった頃にやっていたような事を出来る限りやろうとしている気もする。その全ては波留に合わせての行為だった。
「それは統括部長自ら貴重な物を。ありがたい事だ」
 笑顔を浮かべて言う波留の態度に、久島は肩を竦めて見せる。彼は苦笑していた。その理由を述べる。
「だからそれが美味しいかどうかは、責任が持てない」
「何、君が淹れてくれたのだから、間違いはないさ。これで一緒に飲めたら尚良かったんだが」
 波留は目を細める。コーヒーを味わい、そこから口を離した。そして久島に対してコップを掲げて見せた。その態度に久島もまた目を細めた。口許に笑みを綻ばせる。
「人生とはなかなか上手くは行かないものだ。まあ、次の機会には合わせて義体用のコーヒーを用意するさ」
 片手を胸の辺りに掲げて久島はそう応えた。
 義体では生身の人間とは同じ物を摂取する事は出来ないが、この島では類似の物は生産され一般流通に乗っている。そう言う代替物により、アンドロイドや全身義体の人間も、生身の人間と同様の行為に至る事が出来ていた。
 
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