微かな香ばしい匂いが波留真理の鼻腔をくすぐってくる。閉じられた瞼の向こうに眩しい光を感じてゆく。僅かな空気の流れが顔をなぶった。
 彼の身体に徐々に感覚が戻ってくる。ゆっくりと瞼を上げると、彼にとっては見慣れない天井がそこにあった。光がする方へと視線を巡らせると壁の一面がガラス窓になっていて、その向こうは紺碧の海である。上部から光が降り注ぎ、海の水の揺らめきに反射してきらきらと光っていた。
 ――電理研か。ぼんやりとした視界に煌く光を感じつつ、波留はそう判断した。
 次いで、彼は自分が横たわっている事を知る。身体がベッドのスプリングに沈んでいて、身体には柔らかなシーツが被せられている。どうやら少し眠っていたらしい。まだ覚醒してこない脳に思考を巡らせつつ、彼は右手を上げて瞼を擦った。指先が冷たいような気がした。
「――やっと起きたのか」
 不意に同じ室内から声が聴こえてくる。波留はそれを認め、声のする方に首を動かした。彼の頭を受け止めていた枕がずれる。
 そこには白衣を纏った男が立っていた。その下には電理研の技術者としての制服を着ている。50年前と変わらない若々しい顔が波留を見ていた。彼は波留の保証人である久島永一朗だった。そして現在では波留にとっての親友と言う地位をも取り戻している。
 久島は室内に備え付けてあるテーブルと向かい合っていた。そこではコーヒーメイカーが湯気を立てている。そこではこぽこぽと音を立てて黒い液体が抽出されてゆく。その傍らにはコーヒー豆の容器とミネラルウォーターのペットボトルが置かれていた。
「検査上、脳を安静状態にして貰わなくてはならないとは言え、良く眠っていたものだな」
「ああ、本当だ…」
 波留は視界を確かめるように、手を顔の前にかざす。差し込んでくる光の前に、皺が寄った白い肌が透けた。
 彼は先程、メタル内で意識体としてのAIに囚われていた。事の起こりは彼が望んで「彼女」に接続した事であり、そして「彼女」も彼を気に入って手放そうとはしなかったのだ。そのまま「彼女」と繋がり続けていれば、波留の意識はリアルに帰還出来なかった。ブレインダウンと同じ症状に見舞われる事となっていただろう。
 それでも彼は結果的に無事に帰還していた。が、その場で電理研から精密検査を要請された。彼には異常の自覚症状はまるでなかったが、電理研の委託ダイバーと言う身の上であるためにその要請を断る事は出来なかった。
 電脳ダイバーとしてのメディカルチェックのため、必然的に脳を中心とした診断となる。そのために波留は医療用アンドロイドから精神安定剤の投与を受けた。薬物により脳が安静状態に置かれると能動的な行動は取れなくなる。そのためか、彼はそのまま眠ってしまっていた。
 そうこうしていると何時の間にかに検査は終了していて、電理研内にある来賓施設に移動させられていたと言う事になる。検査が終了した時点で叩き起こしてくれてよかったのにと波留は思うが、今日の彼には特に急ぎの用事もなかったので、起こされなかったとしても構う事はなかった。却って安定剤のおかげで良く眠れて、疲れが取れた気分だった。
 
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