歩みを進めるうちに徐々に廊下は広くなり、人影も見られるようになってくる。白衣と電理研の制服を纏った他の人間が通りすがる度に、久島に対して会釈を行ってゆく。久島はそれに手を挙げて応じる。時には無遠慮に波留に視線を投げかける職員も居たが、波留は反応を返さずに正面を向いたままだった。
 やがて、広くなった廊下の脇に、介助用の女性型アンドロイドが待機していた。彼女は久島の姿を認めると、一礼する。そして片膝を着いて屈み込み、波留に視線を合わせて挨拶を行った。
「――じゃあ、気を付けて帰ってくれよ」
 車椅子の持ち手をアンドロイドに任せ、久島は波留の隣に立って言う。軽く腰を曲げ、波留の視線と高さを合わせた。
「ああ。ビール御馳走様」
 波留は笑顔でそう言う。あの程度の量では酔う事はない彼だったが、それでも間近に顔を見ると久島にはアルコール臭が感じられた。
 久島は立ち上がる。波留の後方へと一歩踏み出した。その際、通り過ぎ様に波留の肩に片手を置いた。
「またな、波留」
「ああ、久島」
 互いにもう視線を合わせる事はなく、挨拶のみを交わした。久島の歩みは普通のペースであり、その手はすぐに波留の肩から離れる。
 靴音が徐々に遠ざかり他人の物と混ざり合ってゆくのを波留は聴いた。向こう側から小さく何事か話し声が聴こえるのは、おそらく久島が自分と別れるのを見計らっていた職員が居たのだろうと思う。彼の親友は本当に多忙らしかった。
「――じゃあ、お願いするよ」
「はい」
 波留は背後のアンドロイドにそう促し、彼女は微笑を作り出して応じる。静かに車椅子が押され始めた。職員達が足早に歩き回る中、彼の車椅子が進んでゆく。明らかに部外者である彼に目を留める職員も居るが、すぐに関心を失った風に通り過ぎてゆく。
 ――帰宅したらどうしようか。人々の動きを眺めやりつつ、波留は頬杖をついて思惟に耽る。
 久島からの入金額を確認して、ホロンに経理作業をやって貰い、多分まだ帰っていないはずのミナモさんにバイト代を払ってしまおうか。蒼井さんは今日は何処に居るのだろうか。お世話になったから彼にも少しは払うべきなのだろうか。それとも電理研として久島が払っているなら二重払いになってしまうだろうか…。
 …つくづく、誰かの事を考える事が多くなったものだ。本当に僕の周りは賑やかになったものだなあ――。
 酔ってはいないはずだったが、少し瞼が重い。彼はそれを自覚した。あんなダイブの後なのでメディカルチェックでOKが出たにせよ、疲れているのだろうと考える。
 そして精神を弛緩させても一向に構わない環境にあるのだとも。
 今日は何もせずにテラスで眠るのもいいかもしれない。おそらく傍にはあの少女が居るだろう。その光景を当然と思い始めている自分に少し驚きを覚える。しかし、悪い気分ではない。
 彼の車椅子は、電理研の地上部分に到達しつつある。この付近は外の光を存分に取り入れるような設計になっているために、昼下がりの柔らかな光が彼に到達していた。自然光を久々に受け容れた彼は目を細める。
 そして光の射す方へと波留は導かれて行っていた。
  
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