再び久島は車椅子を押して廊下を歩いていく。
 現在は彼らは人通りが全くない付近を歩いているが、そのうちにそうではなくなるだろう。そうなった通路付近には介助用アンドロイドを待機させている。それに任せて波留を事務所まで送迎させるつもりだった。
 ぼんやりとした灯りを湛えた静かな廊下に、久島の足音と車椅子の走行音のみが響き渡る。そんな中で彼らは会話を交わしていた。
「――君には世話になったからな。それなりにお礼はさせて貰った」
「…何故、過去形なんだ」
「既に私の資産から振り込ませて貰っているよ」
「久島…相変わらず用意がいいと言うか、気前が良過ぎると言うか…どうなんだそれ」
 涼しい顔で言う久島に、若干呆れた風の声が波留から届いた。
 波留としてはメタルに繋いで自分所有の口座を調べてみれば判る事ではあるが、おそらく久島が言うからにはその通りなのだろう。事務所に帰宅する頃には、入金をホロンが把握していると思われた。
「あまり大金を貰ってもなあ…」
「君の仕事への対価だ。胸を張っていいんだぞ」
 ぼやくような波留の口調に、相変わらず久島は微かな笑みを浮かべながら言う。波留はその台詞に首を軽く捻った。
「今更金を貰ってもあまり使い道がないから、僕の生活費やホロンのメンテナンス費、そして事務所の維持費で消える程度でいいんだが…」
 普通に考えたならば、今、波留が並べ立てた費用はかなりの額になるはずだった。しかし、それらをはした金と認識してしまう程の金額が、波留にとって定期的な収入になりつつある。
 元々、不本意ながら50年間寝かせる羽目になった貯蓄も存在し、更にそこには事故への賠償としての莫大な金額も追加されていた。それらも保証人である久島によって資産運用がなされていたため、目覚めた現在において波留は全く生活に困る事はない。
「昔から君はそうだったな、波留。君は金の使い方を知らなかった」
「君は自分を棚に上げるのか。お互い、電理研からは結構な金を貰っていただろうに」
 波留の指摘に久島は苦笑した。全くその通りであり、そのために波留に莫大な金額を投資してしまっている現状となっている。地位と年齢に似合った貯蓄を持つ今の彼だが、自らの義体のメンテナンス以外にはそれ位しか使い道が思いつかない。
「ミナモさんにバディ代を払うにも、あまりに高額になってしまうのはなあ…」
 車椅子の肘掛けで頬杖をつき、波留は未だにぼやいている。溜息と共にそんな事を言った。
 波留はミナモに対して、最初の支払いの際に中学生のバイト代にしては高額を渡してしまい、兄のソウタからクレームをつけられたりもしていた。それはダイバーのサポートを行うバディとしての報酬と考えたならば妥当な割合での金額だったのだが、相手は中学生なので難しい問題である。波留はミナモを一人前のバディとして扱っているために金額でもそれを表したいのは事実なのだが、社会通念としてそれが許されるのかはまた別の問題らしかった。
 少女の名前が波留の口から出たからだろうか。久島は気付いたように言い出した。
「――今回のバイト代だけではなく、あのお嬢さんにも宜しく言っておいてくれ。事の発端は彼女の勧めなのだろう?」
 その辺りの話も、久島は既に波留やソウタから訊いていた。ミナモが僅か数分間出会い会話しただけで久島の微かな異変を見抜いていなければ、こんなにも早急な対応は出来なかっただろうと。その後の脳死プログラムの発動に関する対応と言い、久島は彼女の直感――直観と言うべきなのかもしれないと彼は思う――を不思議に感じつつもそれによってもたらされる結果は認めざるを得ない。
 久島がそう考える中、波留は首を反らせた。車椅子を押す久島を見上げる。
「何だったら君もまた事務所に来ればいいんだ。おそらく今ならミナモさんも居るよ」
 楽しげに言い募る波留の顔を見下ろして、久島は微笑む。
「今は勤務中だからな。いずれ、暇が出来たら御挨拶に伺うよ」
 他愛もなく取りとめもない会話だった。しかしこんな会話が出来る事自体が素晴らしいと、互いに思う。色々あったが、現在では悪い状況ではなかった。
  
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