「そうか…」
 言葉少ない波留は相変わらず相槌を打つだけだった。そして深い溜息をつく。
 その親友の様子に、久島は気付いた。思わず腕を解く。自分が不愉快な気分になってはいたが、この親友もこの状況には心を痛めていただろうと感じた。
 だから彼は波留に慰めの言葉をかける。表情を柔らかい微笑みに変え、胸に手を当てて波留を見やった。
「君が気に病む事ではない。私は結果的に無事だったのだから」
「それはいいんだ」
 しかし波留は久島を見る事無く、さっくりと切り捨てた。その態度に久島は唖然となる。
 波留が発したのは乱暴ではあるが、あまり感情が込められていない台詞だった。それは何らかの事情によりあてつけている訳ではなく、何か他の事に気を取られている様子に久島には思えた。
 ふと、波留は顔を上げた。久島を見つめる。そして口を開いた。
「――この脳死プログラムに巻き込まれた人間は、僕以外には居ないんだろうか?」
 その波留の台詞は、久島にとっては意外な方向だった。だから正直に、知っている事をそのまま答えた。
「現在、電理研にはその手の調査依頼は来ていないな」
 メタルの海にはダイバーの資格を持たない一般利用者はログイン出来ないが、彼らはフィルタリングされたその情報を利用している。そのためにメタルの海で走ったプログラムは、少なからず一般区画にも波及する。その影響の殆どは防壁に阻まれるが、今回のような強力かつ致死的なプログラムともなれば、防壁を破っていてもおかしくはなかった。
 仮に脳死プログラムが一般区画にも走り誰かを巻き込んでいたならば、それはブレインダウンの一種として報告が上がってくると思われる。ブレインダウンの調査究明は電理研の重要な仕事のひとつである。誰かの身にそれが発生したならば遅かれ早かれ通報がもたらされるはずであった。しかし現状ではそれらしき報告も依頼も来ていない。少なくとも久島はそれを把握していなかった。
 波留は車椅子の肘掛けを指先で数度弾く。革製の弾力性のある音がする。そして久島を見上げた。真剣な目をして言う。
「もし来たら、優先的に僕に回してくれないか?後始末は自分でつけたい」
「おい、波留…」
 突然の申し出に久島は戸惑った。だから彼の名を呼ぶ事しか出来ない。
「海で人が死ぬのは厭なんだ。――僕の目の前で、むざむざ死なせるのは。これで既にひとり、見殺しにしてしまった事になる」
 久島の呼びかけを遮ったのは、強い口調だった。それに久島は軽く怯む。彼にとって、自分からダイブの仕事を持ちかけようとする波留を見るのは初めてだった。そして何故今回の一件に関してここまで責任を感じなくてはならないのか、理解出来ない。
 波留は車椅子の肘掛けの上で拳を作っていた。強く握り締められている。片方の手にあるままの缶が、微かに震えていた。
「もっと上手くやっていたら、僕は彼を殺さずに済んだかも知れないんだ」
「波留」
 顔を歪めて強く語る親友の名を、久島は短く呼ぶ。しかし波留はそれに反応しない。視線は鋭いまま、只、心の内を吐き出していく。
「あの糸を自力で追うのではなく、自動追尾プログラムでも併用出来ていたならば、もっと早く居場所を掴めたはずだ。これ見よがしに追わずに僕を隠匿するプログラムを走らせていたら、彼も追跡に気付かなかったかもしれない。そうなれば、変なプレッシャーを掛けずに自殺に追い込む事はなかったんだ」
「波留、止めろ。そんな考え方は」
 彼を見ていられない気分になり、久島は瞼を伏せた。口元を歪めて言う。
 一見正論に聞こえる波留のそれは、実は自分を追い詰めるだけで何ら建設的ではない。失敗に後悔して自分の行動を責める事など誰にでも出来るが、だからと言って事が起こる前にそれを行うなど、果たして可能だったのか。大体、今回のあまりに少ない事前情報から、適切なプログラムを選択し装填してダイブ出来たと言うのか。
 人の命が失われてしまったからこそ、そこまで思いつめてしまうのか。久島にはその心境を理解しつつあった。それは彼にとって良く判る心境だった。
 だから最早、彼の言葉は懇願となる。胸に当てた手に力が入り、白衣を鷲掴んでいた。瞼を伏せたまま、言葉を発する。それは沈痛な表情だった。
「波留、頼むからそんな事を言うのは止めてくれ。君は出来る限りの事はやったんだ。私が無事であるだけでは不満だと言うのか」
「しかし」
「人の手はそれ程大きくも強くもない。掴めないものはたくさんある。無理なものは無理なのだ。私だって――」
 久島は何かを言いかけて、しかし言えなかった。台詞を途切れさせ、瞼を開いていた。その親友の様子に波留の思考は立ち止まった。今までの自身の感情がせき止められ、怪訝そうな表情になる。
「…どうした?久島」
 素に戻ったかのような波留の顔を見やり、久島は少し笑みを漏らす。それでも言わんとした事からは逃れたまま、別の言葉を継いでいた。
「いや…――とにかく、そう言う事は長年生きていると、必ずあるものだよ」
 私だって、あの時ケーブルをもっと強く掴んでいたならば。異変に気付くのがもっと早ければ。観測実験をあの時点で終わりにしておけば――。
 ――彼は50年間そんな後悔の念に苛まれて生きていた事を、目の前の波留には未だに吐露しようとはしていなかった。只、彼の脳に忘れられない記憶として刻みつけているだけだった。
  
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