彼らが入った室内は段差もなく車椅子も自然に乗り入れられた。ここには最低限の家具が揃っているが、あまり生活感がない。基本的にきちんと片付けられているのもあるが、家具の中には使用されている痕跡が然程見られないのもある。そんな中でも部屋の一角には、ケースが雑然とした状態でいくつも積み重なっていたりした。
 久島は波留の車椅子を室内の中央まで導き、離れた。そのまま室内を進み、壁に設置されている冷蔵庫を開ける。
「――あの時、僕が正規の手続きでログアウトしていたら、間に合わなかったよ。だから多少脳に負担が掛かっても色々と端折って強引に落ちたんだ」
 久島の様子を眺めながら、波留は口を開く。
 その淡々とした口振りに対し、久島は顔を上げた。冷蔵庫から放たれる冷気を体に当てつつ、波留に向き直って言う。
「確かにあのまま普通にログアウトしていては脳を焼かれて終わりだったろうが、いつもあんな選択肢を含めるようにはするな。脳の問題だからと言って、気合でどうにかなる事ではないんだ」
 苛立ちと気遣いを含めて言いながら、彼は左手で冷蔵庫の中の缶を掴んだ。ミニサイズの缶を手に収め、彼は冷蔵庫を閉じた。
「大体、今の君なら判っているはずだ。戻って来れないダイバーには、リアルでもメタルでも意味はない――」
 と言った時、久島は手の中の缶を取り落とした。缶は多少強い音を立てて床に激突し、次いで軽く跳ね返る。幸いまだプルトップを捻り上げていなかったので、中身が零れる事はない。缶はそのままフローリングの床をころころと転がってゆき、波留の足元で止まった。
「…どうした?久島」
 自らの足元を見やり、波留が怪訝そうに訊く。冷蔵庫から出されたばかりのミニサイズの缶は軽く汗を掻いており、床を転がって来た事により表面に幾筋の水滴がついて来ていた。
 久島は首を軽く傾げて左手を見ていた。肘から曲げ、顔の前に手を持ってきて5本の指を曲げてみる。指の一部に若干の震えがあった。
「――いや、義体の換装がまだ終わってなくてな。これも間に合わせの大量生産品の義手なので、普段の私の義体と少し勝手が違って、動かし辛いんだ――今の世の中はメタルで様々なものを操作出来るから、四肢に多少不具合が出ていても構わないんだが」
 言いながら久島は缶を追って歩みを進め、波留の前で上体を曲げた。静かに右手で缶を拾い上げ、波留に缶を差し出す。車椅子の老人はそれを受け取った。
 微笑する波留に、久島は右手で指し示す。
「大体、君のせいだぞこれは」
「僕のせい?」
 久島の不満げな表情と声に、波留は首を傾げた。それを見ると久島はますます表情が不機嫌になる。
「ホロンに命令したのは君だろう?」
「ああ…」
 波留はようやく頷いた。確かにそれは事実だった。あの際、久島はハックされていると目星をつけ救出作戦を構築するに当たり、波留は自らがマスターを務めるアンドロイドに明瞭な指示をしていた。それを今、彼は、行使した相手の前で口にする。
「全身義体相手だから頭部以外は潰す勢いでやりなさいとは言ったが、まずかったのか?」
 さらりと言われ、久島は軽く口を開けた。一瞬、思考が停まる。そうではないかと思ってはいたが、まさか本当にそう言う命令を出していたとは――彼は明らかになった事実に半分驚き半分呆れていた。
「…おい。酷いだろうそれは。ホロンが額面通りに受け取ってしまったじゃないか」
 人工生命体――生命と言えるかどうかは社会通念的に議論の真っ最中であるが――であるアンドロイドは、人間に忠実であるように設計されている。
 彼らは基本的に、人間の誰かをマスターとして認証し、この世の中を生きている。彼らは人間に近い存在となりつつあるが、心からの自由意志はない。人間に対する不利益を自分の意思でやる事は通常AIに走るプログラム上あり得ないし、マスターからの命令は可能な限りどんな事があっても実行しようとする。アンドロイドとは、そう言う存在だった。
「彼女は手加減したと思うよ。本当に額面通り実行したなら、君の首根っこを引っこ抜いてるんじゃないかな」
「…冗談にしても笑えないぞ。お前」
 淡々とした口振りのままだった波留に、久島は顔を歪めた。
 確かに全身義体である以上、脳本体とその生命維持装置で構成される脳核さえ無事なら生存出来る。そうは言っても、有機義体用体液を撒き散らしながら泣き別れた自分の胴体を見る首だけの自分と言うものは、他の一般人同様に彼にとってあまり想像したくない代物だった。
  
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