――ミナモさん!?
 その時、確かに波留はミナモの声を聴いた。本来なら電脳化していない彼女の声は、メタルに潜っている彼には届かないはずだった。――傍に久島が居る事は判っていたが、久島が彼女の音声をデータ化してこちらに送信してきたのだろうか?それにしては唐突だと彼は思った。
 ともかく、「そこに居ては駄目」と、彼は確かに聴いた。聴こえるはずもない声が聴こえた事実に、彼は一瞬躊躇する。
 しかし、彼はミナモの台詞の内容を理解すると共に、瞬時に動く。糸を掴み出来るだけ手繰り寄せ、手にしていた短刀でなるべく長く確保して切る。そのまま水中で逆方向にターンを掛け、一気に上に向かって突き進む。
 波留の体が水を切り、凄まじい勢いで上がっていく。彼女が「そこに居ては駄目」と言うならば、間違いなくそうなのだ。僕はミナモさんを信じている――。泡を巻き立てながら上昇する彼は、そう思っていた。
 一方、久島はミナモの叫びに驚いて彼女を見た。そしてその言葉をまるで本当に耳にしたかのような波留の行動に、更に驚く。彼女の声がメタルに聴こえるようには全く設定していなかったのに。以前にもこんな事があった。このふたりは一体何なのだろう――。
 しばしその驚きに捉われた後に、久島はモニタに視線を戻す。すると、彼にも黒い点が見えた。ミナモが発見した時よりも大きくなっていて、それは徐々に広がってゆく。じわじわと海中を侵食していく。
 数秒後。それが何かを悟った彼は、ミナモ同様に叫んでいた。
「波留!逃げろ!――ログアウトしろ!」
 叫び同様、強い語調の思念がメタルの波留にも転送される。
「それは、脳死プログラムの暴走だ!このままではお前も巻き込まれるぞ!」
 波留の元に親友から届いた思念には、焦りの色が濃い。
 自らが巻き起こす泡の中、波留は下方を見た。輝く糸がのた打ち回るように激しく揺れる先に、漆黒の闇が浮かび上がっている。それは徐々に周囲を侵食し、海を暗くしていく。
 彼は急に体が冷えてきたような気がしてきた。水温が下がってきたようだ。それは足先から伝わってきていて、徐々に足の指の感覚が消えていく。
 深い闇で海底を見通せない。上昇している波留の速度よりも速く、纏わり着くような闇が迫り来る。
 ――間に合うか!?
 回収した糸を握り締め波留は心の中でログアウトを施行するが、次の瞬間にはメタルの彼は漆黒の闇に飲み込まれていた。
  
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