――それでは、揚がろうか。 波留はそう話し掛け、片腕で久島の体を抱き締め直す。上昇するために、きちんと要救助者の体を固定しにかかった。しかし久島は、波留のその腕にそっと手を当てる。押し留めようとした。 ――いや、私はブレインダウンした訳ではない。ハックしてきた経路を遮断したのだから、この場でこのままログアウトすれば私はそのまま義体に意識を回復出来るはずだ。 メタル構築者は理論上の考えを波留に述べた。それに波留は頷く。 ――そうか。それなら、実はその方がいいんだ。僕にはまだもう一仕事残っているから。 ――…何をする気だ? 後ろから抱き締められたままのため、首を後ろに巡らせつつ怪訝そうに訊く久島に、波留は片手を示して見せた。そこには先程切断し、掴んだままの糸がきらきら輝いて遥か彼方に伸びている。 ――この糸を辿って、犯人の所まで行ってくるよ。 この波留の申し出には久島は驚きを隠せない。すぐに制止する。 ――待て。それこそ危険だ。 ――危なくなったらログアウトするよ。とにかく場所をある程度まで絞り込みたい。君は、僕が提出するそのログで犯人を特定するなりすればいい。こんな事をしでかした人間をこのまま放置するのは、君にもメタルにも、あまりいい事じゃない。 久島に伝わる波留の思考は明快だった。少しばかり楽観に過ぎるような気が、久島にはしないでもなかった。しかし、これ以上危険を示唆しても、波留の考えは変わらないとも彼は思った。この親友とは、そう言う奴なのだと彼は知っていた。 ――…これは電理研からの依頼ではないし、君は警察ではないのだから、犯人確保に気合を入れる必要はないんだがな…。 溜息をつく素振りを見せる久島に対し、波留はバイザー越しに笑顔を見せた。その笑顔を見ると、久島はそれ以上諭そうとは思わなくなった。――危険な行為には違いないと言うのに。普段だったら怒る所だろうに。やはり脳の何処かが麻痺したままなのかもしれない。彼はそう自己判断するが、そんな考えを巡らせる事自体にも疲れを感じた。 ――まあいい。脳が疲れた。私は一足先にログアウトしてリアルに帰るよ。後でまた会おう。 ――ああ、また後で。 波留が挨拶を返すと、久島は微笑み返す。そして波留の腕の中に居た久島が光芒に包まれ、徐々に消滅してゆく。ログアウトを施行したために、メタル内のアバターとしての身体が処理されていった。 数秒後には波留の腕の中から光は消え去った。そして彼の腕にも、何かを抱く感覚は既にない。波留はその腕をゆっくりと解いた。 その手で糸の向こう側を更に掴み、ずっと糸を手にしていた手首に絡める。回収していくため、手首に何度か巻きつけた。もう攻撃を繰り出してはいないのか、それともダイバースーツに覆われているために防御出来ているのか、彼は今の所は痺れなどは感じない。 ――さて、ミナモさんには心配かけるが、もう少し頑張るか。 彼のこの呟きは現状、誰にも聴こえる事はない。名前を出された少女は彼の視点で映し出される動画をモニタで見ているだろうから、この状況自体は理解出来ているはずである。しかし自分達の会話を訊いた訳ではないのだから、事情は理解出来ていないだろう。そんな彼女は、久島を救出したのにまだ戻らないのかと心配しているだろう…――。 ともあれ、波留は用心のため再び腰の短刀を抜く。足を動かし、糸を手繰り手首に巻き取りつつ、彼はその方向へ泳ぎ始めた。 |