一方、リアルにて彷徨っている久島――久島の義体は、人工島の水路を走る水上バスの甲板に立っていた。これは人工島の公共交通の大多数を占める手段である。様々な路線が張り巡らされ、人々の生活を支えていた。
 とは言え、現在の乗客は久島のみだった。水上バスは基本的に無人運航のため、乗員を含めても彼しか乗っていない。
 バスはそのうちに地下水路に入り込んでいく。これもこのバスの定期航路のルートである。地下水路ではバスが水を切る音しか響いてこない。バスが通るだけあって天井の高さはそこそこあり、その天井には淡い照明が備わっていた。じっと立ち尽くしてる久島を淡く照らしているが、陰影をあまり作り上げる事はない。薄暗い。
 と、そのバスの真正面から、何やら水を掻き切るような音が聴こえてきた。そしてその音はどんどん迫って来る。久島は視線をそちらに向けた。
 民間用の小型ボートが迫り来ていた。それがバスの正面に来た時、勢い良くテールを切った。横向きにスライドする。水飛沫が上がり、バスにも振り掛かるが、船同士がぶつかる事はなくぎりぎりで衝突は回避されていた。
 テールスライドしてボートとバスが最接近した瞬間、ボートの甲板から黒い影が跳んだ。それぞれの甲板には段差がありボートの方が若干低い位置にあるのだが、助走と遠心力を上手く利用したらしい。水飛沫を背後に受けつつ、誰かが両脚でしっかりと着地していた。軽くその場で何度か爪先を鳴らし、そのまま数歩足を進める。
 久島は彼の姿を見た。数時間前に電理研の付近で出会った黒髪の青年だった。その両手には指貫グローブが嵌められている。
「――先生、どちらへ?」
 跳び移ったソウタはそう言いつつ、自らの上司と対峙していた。
「――…先程、用事があると言ったろう」
「用事ですか」
 言いながらソウタはポケットの中に手を入れる。そして彼は上司に話を振り始めた。
「お気付きでしたか?公共のバスなのに客が先生だけなんて、おかしいと思いませんでしたか?」
「…そう言えばそうだな。しかしそんな時間帯もあるだろう」
「実は公共交通システムにちょっとした悪戯を仕掛けましてね。このバスの認証番号を一定時間抹消してるんですよ。そうすると、このバスは何処にも停車しない。この路線は運航台数が多いので厳密な時刻表は存在しませんから、市民もシステムも別のバスで代用出来ている。――まあ、あまり被害が出ない、悪戯ですよね」
「悪戯が過ぎると警察が動くし、電理研としても処置せざるを得ないが」
「他にもあるんですよ。この地下水路のシャッターの両端、出入り口のシャッターを降ろしています。30分程度の予定ですので、まあこれも悪戯ですし、都市システム上この程度の誤作動はたまにある事です。誰も問題にしないでしょう」
 ソウタはポケットに手を突っ込んだまま、肩を竦めてみせる。その姿勢のまま、視線は前にやる。上目遣いで久島を見やった。
「後、この付近の監視カメラも殺してあります。後でログを上書きするよう、既にシステムに仕込んであります――まあ、この辺をカバーしているカメラは3台だそうだから、これにも気付く人間はいないでしょう」
 つまりはシステムクラックによって久島をこの場に誘い込み、今、自分達が立ちはだかっているのだ――と、ソウタは言いたげである。
「全部、私の知り合いの有能な電脳ダイバーの仕業です。打ち合わせたのはつい30分前だってのに、作業早いでしょう。電理研で取りませんか?」
 ――……波留か………。
 メタルの中の久島は今の状況を覗き見て盗み聞きしていたが、そう直感した。ソウタはわざと遠回しに表現しているが、久島にはそれが一体誰なのか理解出来る。
 しかしメタルに押し込まれている今の彼の状況は悪かった。生きてはいるが最悪に近い状況である。
 彼は洞窟の中に押し込まれ、イカのアバターを持つ攻撃プログラムがその何本もの足で彼を絡め取っていた。締め付ける事はしてこないが、動きは完全に封じられている。
 更には首の糸からは何やら痺れのようなものが伝わってきていて、痛みはないが意識が朦朧とする。何かをまともに考える事はあまり出来そうになかった。
 そんな彼だが、ソウタの台詞から、波留がダイブしている事は推測出来た。おそらく、自分を救うために。しかしここに気付く事が出来るとは限らない…。呻きにも似た溜息をつこうとすると、口から泡が吐き出された。彼は黙って視界の向こうに感じる事が出来る、リアルの光景に目を向ける。
「――君の友人の勧誘は、もっと別の手段でやりたまえ」
 久島の義体はそんな台詞を口にした。
 それを耳にした瞬間、ソウタはポケットから手を出した。その手にあったものは、身分証明証である。彼はそれを提示した。
「電理研インターン、蒼井ソウタです。今の問答によって、あなたは――あなたの今の意識は、統括部長久島永一朗氏ではないと判断しました。よって、今からあなたを義体毎拘束します」
 意識レベルのメタルは防壁に区切られており、他人の記憶に強引に侵入する事は不可能に近い。だから肉体的な部分をハックしてもその人物の記憶のハックまでは不可能である――それがメタルの原則であり、前時代の電脳ネットとの大きな差だった。
  
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