その頃には、久島は――自らを久島永一朗だと認識している意識は、液体の中に捕らえられていた。 一瞬の事だったのだ。オペレーターと会話を交わしていた時に、ほんの一瞬、彼は意識を途切れさせた。刹那に意識を取り戻した時には、ここに居たのだ。 全身義体である彼には呼吸する必要はない。それでも彼は注意深く口を開くと、水のような感覚を持つ液体が口の中に含まれるのを感じた。 ここがメタルの内部だと推測するのに時間は掛からなかった。しかし何故突然こんな所に飛ばされているのか。そもそも、身体はどうなった?――そう思い、彼は視線を前に向ける。水越しの空間には、今まで会話していたオペレーターが映っていた。そして微かに聴こえてくる声がある。オペレーターの声ともうひとり――それは彼自身の声だった。声を発したつもりはないのに、自分の声が聴こえている。オペレーターがそれに頷いている。 ――何者かにハックされたか。久島はその結論に至った。 思い返せば、それ以前に首筋に痛みが走った時があった。あれがメタル経由で意識に経路をつけられた感触だったのだろうかと彼は思う。それとも以前から経路はつけられていて、あの痛みが不正アクセスの感触だったのか。ともかく今それを考えても、遅い。 折角のメタルの中なのだから、彼は誰かと通信を試みようともした。しかし回線を切断されているらしく、誰とも繋がらなかった。この状態ではメタルからのログアウトを試みようとしても、どうなるのか判らない。 自分の自由にならない自分の身体は電理研を出て、何処かに移動しているらしい。そう言う事を感じる事は、今の久島にも可能だった。途中で蒼井兄妹に会ったものの、この身体は特にボロを出す事もなかった――そう言う出来事も彼は把握出来ていた。 そんな状況を見守るしかない中、徐々に彼の周りに物体が構築されていく。岩壁めいた物体が彼の周りを取り囲んでいく。正面のみが開けた状態で、まるで海中の洞穴だった。 そもそもダイバーとしてメタル内に侵入していない今の姿はいつもの白衣である。こんな姿ではメタルの海を自在に泳げる訳もなかった。それに彼はメタルの開発者ではあるが、ダイバーとしての資質はそれ程持ち合わせていなかった。 ――まずいな。どうしたものか。 彼には脱出路が思いつかない。ハックしたものの彼を排除しない――つまり意識があり脳核が無事と言う事は、脳核自体に用があると言う考えが出来る。単に彼を操ってみたい愉快犯でないのなら、暗殺が目的でハックしたのではないのだろう。 となると、誘拐か。勧誘ならもっと平和裏にやって貰えないだろうか。彼はひとりごちた。 しかし命の保証が永遠にされている訳ではない。この手の非合法な手段に出る人間には「自分のものに出来ないのなら、誰のものにもさせない」との結論に至る性質がある。命を握られている事実に変わりはない。身体を奪われている以上、相手は何時でもこの脳を焼く事が出来る。下手な行動は取れない。 その結論に至った所で、久島は自分の状況を把握すべく、意識を周辺に向ける。不慣れなメタル内部ではあるが、自分に出来る事をしようとした。 洞窟の暗がりの向こう、目の前に広がるのは海のような水。あちこちで空気のようなデータを吐き出すクラックがあるのか、泡が上がっている。――そもそも自分で作ったものだろうに。彼は半ば自らに呆れる。 彼はふと、視界に煌めく糸のような光が掠めるのを見た。注意深く見ないと判らない。何処かからの光の照り返しかと思われたが、メタルの水に揺られるように細く輝いている。 目新しい物を発見した彼は、注意深くそれに手を伸ばした。光に指を重ねようとすると、引っ掛かりを感じる。どうやらそれは、本当に光り輝く糸であるようだった。糸に触れても指先に痛みや痺れは感じられない。彼は慎重にそのまま、指先に糸を数度巻きつけた。 すると、軽く首の辺りが引かれたような感覚が伝わってくる。そこで彼は指から糸を解き、軽く掴んで自分の方へ糸を手で辿る。そのまま手が喉元に行き着いた。指で喉元に触れると、細い糸が何重にも巻きついているような感触がする。 彼は喉元で糸を軽く掴み、視線をまた前に向けた。糸は何処までもメタルの海に伸びている。 ――これが経路だろうか? 消失点の遥か先まで続いている糸を眺めつつ、久島はそう考えた。しかし、無理に振りほどこうとすれば喉に喰い込むような気がした。 今は軽く絡みついているだけなので、特に苦しくはない。糸を発見するまで首に糸の感触を感じなかった程である。そこで何らかの行動を起こそうとしたら、糸が絞め付けてくる可能性が考えられた。メタルのイメージではそうであっても、リアルで言うならば脳に負荷を掛けてダメージを与えてくると言う事だ。 久島にはいくら視線を落としても自分の喉元までは見る事は出来ない。もしかしたら、糸の先端は首筋に潜り込んで、自分と同化しているのかもしれないとも彼は考えた。何せ、あの時には首筋に痛みを感じたのだ。 だからと言って、このままじっとしていても駄目だろう。彼はそう思い、腕を組む。回線を切断されているためにメタル内で検索出来ないにせよ、脳に隠匿しているプログラムの中で何か使えるものはなかったかと、考えた。 |