その時確かにその義体は、軽く口を開けて何かを言い掛け、しかし何も言わなかった。半開きの口をそのままに、白髪の老人を見下ろしている。その義眼には、僅かに何らかの揺らぎを感じ取る事が出来るような印象があった。 少しの沈黙の後、義体は疑問を口にした。その表情は無感動なものへと戻っている。 「――…君はこれから潜るのだろう?ならばこれは必要ではないのか?」 その問いにも、波留は微笑を浮かべたままだった。彼にとってそれは至極もっともな疑問であり、想定内の問いだった。だから心の中にあった答えをそのままに吐き出す。 「僕が旅立つのは深海5000メートルの世界ですからね。これはもう役には立ちませんよ。今まで僕に付き合ってくれたものですから、無意味に持って行った末に壊れるのも忍びないです。だから、差し上げます」 にこやかに波留は義体にそう告げていた。 対する義体は無表情を保っている。自らに嵌められたダイバーウォッチに視線を落とす。スーツ姿にはそぐわない無骨な高性能時計がそこにある。 確かに波留が言うように、通常仕様のダイバーウォッチは超深海には対応していない。深海5000メートルなど生身の人間が潜る領域ではないからである。普通この手の機材は、想定していない状況に対応する余裕があるならば、もっと別の領域にリソースを振り分けるものである。 義体の右手が僅かに肘掛けから上がる。そのままゆっくりと膝の上を進み、左手首をその掌で包み込んだ。押さえるように、ダイバーウォッチを掌で覆う。無骨な時計とは言え、男性の掌にはすっかり収まっていた。 視界に自らのその様子を収めながら、義体は言葉を発した。 「――判った。私が責任持って預かっておこう」 その声に、波留は意外そうな表情を浮かべていた。が、すぐに微笑む。 「…ええ、お願いします」 跪いていた波留はそのまま両手を義体に伸ばした。膝の上にある義体の両手の上に、更に重ねる。皺が寄った掌で義体の肌を包み込んだ。義体の方が人間の体温を保持する設定になっていて、人間である波留の方がむしろ体温は低かった。 しかしそれは彼にとってはいつもの事だった。久島当人と手を重ねる時、幾度と無く同じ事を思ったはずだった。心地良さすら感じ、彼は瞼を伏せた。そのまま黙り込み、掌から伝わる感触に意識を集中する。 義体も沈黙したままだった。波留に手を取られた状態のまま動かない。視界をそこに固定している。彼がそこに何を見ているのかは、彼当人のみが知る事だった。 |