波留は立ち上がり、皺が寄った感のある白衣を羽織り直した。作業が終わった今、床に置かれていたタオルや水入りの容器、洗剤などを再び持ち上げる。そのままゆっくりと流しへとそれらを持って行っていた。
 そして再び戻ってきて、サイドテーブルの前に立つ。そこに置かれたティーカップ一式に視線を落とす。彼はカップとソーサーに手を掛け、持ち上げた。
 そこに僅かに残されていた紅茶を一気に飲み干す。色々な騒動を経て、それはすっかり冷めてしまっていた。僅かな苦味が彼の口の中に広がり、少し気になった。
 ともかく彼はそのカップ一式を手にして流しへと向かう。それらも片付けに掛かる。流しで軽く濯ぎ、洗う。ポットに入っていた茶葉は、部屋に残さないように小さな袋に入れる。汚れたタオル同様に、部屋の外へと持ち出す事にする。
 以上の作業を終え、波留は再び部屋の応接間に戻ってくる。濡れた両手をタオルで拭いながら歩みを進めてゆくと、その向こうには相変わらず車椅子に収まる義体が沈黙していた。
 しかし、ある程度の時間を置いたはずだったが、「彼」はまだ目を伏せていなかった。顔を真っ直ぐと上げ、只前を見据えている。その視界に波留の姿が入ってきたと思われても、特に反応を返す事はしなかった。
 その膝の上に置かれたままの左手が与える無造作な印象は変わらない。その左手が覗く袖口からは、遠目からではもう汚れは目立っていない。
 そんな親友そのままの容貌の義体の様子を、波留はある程度の距離を保ったまま眺めやっていた。ふと、自分の右手に視線を落とす。その手を胸の前に挙げ、顔の前に手首を持ってくる。
 持ち上がった手から白衣やスーツの袖口が落ち込み、そこに研究者としての白衣や上品なスーツとは不釣合いに無骨なダイバーウォッチが露になっている。その液晶画面には現在の時刻がデジタル表示されている。
 彼はゆっくりと左手を、右手の手首に伸ばした。ダイバーウォッチのベルトの留め金に指を掛ける。留め金を持ち上げ、彼はベルトを静かに緩めた。そのままベルトを抜き取り、右手首からダイバーウォッチを外す。
 そして波留はまたしても車椅子の前に屈み込む。跪く格好になり、義体の左手を持ち上げた。力ない手はそのまま波留の仕草に素直に従う。持ち上げられると手首の関節が曲がり、赤くなった肌が少し目立った。
 義体はちらりとその方を見た。しかし何かを言い出す事はない。只その様子を見ている。
 波留は義体の袖口を少しずらして上げる。そこに現れた僅かに赤くなっている左手首に、彼は自らのダイバーウォッチのベルトを巻き付けた。そのまま留め金を嵌め、無骨な時計をそこに留めた。
 作業を終えた波留は、そのままゆっくりと義体の左手を膝の上に置いた。そしてやんわりと両手を離す。
「――何だこれは」
 若干の沈黙を経て、義体が声を発していた。そこには僅かに怪訝そうな響きがあるように感じられる。いくらAIとは言え、自分の想定していない出来事を目の当たりにすると、それを処理しようと機能するのだろうかと波留は思った。
 波留は義体を見上げた。にっこりと微笑む。
「僕のダイバーウォッチです」
「見れば判る」
「そうですね」
 怪訝そうな義体と微笑む人間との、短い問答だった。その後に義体の率直な言葉が続いた。
「私が聞きたいのは、何故これを私に装着するのかと言う事だ」
 それはAIとかそう言う問題ではなく、渡された個人としては素直な疑問だろう。波留にはそれは判っていた。しかし彼は僅かに声を上げ、くすりと笑った。口許に手を当てる。
 そして細めた目を義体の顔に向け、笑顔で告げた。
「差し上げますよ」
 
[next][back]

[RD top] [SITE top]