「――…ああ、汚してしまいましたよ」
 波留は再び溜息をついた。その箇所と自分の持つハンカチとを見比べる。そして一旦立ち上がり、彼は義体の前から踵を返した。今まで彼が居た方へと歩いてゆく。
 部屋の奥に備え付けられている簡単な流し台まで足を運び、そこにあるタオルを数枚手に取る。小型の容器に水を注ぎ、洗剤の容器を確保した。
 車椅子に収まった義体は、白髪の老人がそう言った様々な物を手にして戻ってくるのを黙って見ていた。主観的に見るならば、まるで待っているかのようにも思えたかもしれない。
 ともかく波留は持ち込んできた物を隣の床に下ろし、車椅子の足元に跪く。タオルを1枚手に取り、その先端を水が入っている容器につけて濡らした。そしてその部分に洗剤を僅かに含ませる。
 そう言った細工をしたタオルで、波留は染みを作った袖口の付近を軽く叩いてゆく。すると少しずつ染みが解けていくような印象を与えた。
 義体はそんな波留の俯いた顔に視線を落としていた。視界の中では結ばれた白髪が垂れて、首筋に掛かっている。首筋をくすぐるその存在を気にしないように、淡々と作業を進めている老人を眺めていた。
 波留は水と洗剤を染み込ませたタオルと、水のみのタオル、乾いたタオルなどを使い分け、確実に作業を続けてゆく。そうしているうちに、段々と色が目立たなくなって行っていた。タオルで延々叩き拭き取ったせいでスーツ地が若干毛羽立っているが、それもすぐに落ち着くだろうと彼は踏む。
 ――これで目立たなくなった。本当ならばこのまま洗濯すべきだが、そうもいかないか――波留はそう思った。ともあれ目的の作業をやり遂げた事で、満足げな表情が自然に浮かんでくる。
 その時、彼の真上から、声が投げ掛けられた。
「――波留は何でも出来るから、こう言う事は君に任せておけばいい」
 それは、淡々とはしていたが、紛れも無く波留の馴染みの声で話されたものだった。思わず名前を挙げられた方は、顔を上げてしまう。その言葉を発した人物をまじまじと見上げていた。
 そこに居る人物は、相変わらず表情無く波留を見下ろしている。肘掛けの上に置かれた右手と、膝の上に収まったままの左手はどちらも無造作な印象のままだった。全く、状況は変わっていない。
「…今のは、一体どういう意味でしょうか」
 波留は静かにそう訊いていた。口調はともかく、今の台詞の内容はまるで、彼が知るその存在が口走るようなものだったのだ。それを何故このAIが語ってみせたのだろうか。
 白髪の老人に見上げられている義体は、黙って彼を見つめていた。表情には何も表れていない。その口が開かれる。
「久島永一朗の記憶に遺されていた台詞だ」
「…成程」
 義体の口から発せられた短くも端的な回答に、波留は首肯した。それならば彼も納得が行く。
 確かに久島が日常生活において似たようなミスをやらかした際に、その応急処置と始末をつけるのは、波留自身だった。そんな最中に同じような台詞を良く言われていたものだった。そんな記憶が彼の中に存在している。
 このAIにもそんな記憶が遺されていて、同様の状況が引き起こされた今、同様の台詞を用いてみる事を試行してみただけなのだろう。波留はそう結論付けた。
 ――とは言え、そんなどうでもいいような記憶が遺されていたのか。他者にも伝えるべき地球律論などを差し置いて、こんなものが並列に。波留はそんな事を思った。
 が、しかし、そもそもあの時メタル内で見つけた久島の記憶自体が、第三者から見たら果てしなくどうでもいいものだったのだから、今回の事も同様なのかもしれない。勿論記憶に遺されている側としては嬉しいのは確かだが、微妙に考えてしまう部分も存在している。
 波留の考えをよそに、久島の姿をした義体は、相変わらず無言で彼を見ていた。
 
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