それから、ぎこちない動きで義体はカップを動かす。その右手をどうにか動かし、波留が持つソーサーにカップを戻そうとしていた。相変わらずその表情には何も表れていない。 波留はその動きを黙って見ていた。確かにもどかしい動きだが、下手に動いて手助けしようとしては義体にとっては予想外の動きとなって、却って邪魔になるかもしれないとの判断があったからだった。 下から見上げる波留の視界には、白磁のカップとそこから僅かに上がる白い湯気が入る。おそらく義体の視界にはオレンジ色の水面も入っているはずだった。 ――彼には色彩は認識する事が出来るのだろうか?ふと波留はそう思った。人間を識別している以上、それは排除していてはまずい機能であるはずだった。何かを識別するに当たって、色彩は重要な情報なのだから。しかし合理性を重んじる久島ならば、それすら必要としない機構を作り上げているのかもしれないとも思えてしまう。 波留がそんな物思いに耽っている時の事だった。 そこで、カップが傾いた。力加減を誤ったかバランスを崩したらしく、義体の人差し指が持ち手の蔓をその曲げられた指で作り出した輪の中で空回りさせていた。 そのままカップから、その中に収まっていた液体が注がれるように下に落ちてゆく。それは義体の膝上に力無く置かれている左手に掛かった。 「――あ!」 慌てて波留は動いた。速攻で手を伸ばし、傾いたカップを押し留める。彼は、零れ飛び散り飛沫となった紅茶の気配を手や顔に感じた。それはまだ暖かかった。 上手い具合に波留は右手を伸ばして下からカップを支える。傾き下を向いていたカップを押し留め。底を持ち上げて上を向かせていた。義体が軽く持ったまま、中空でカップが止まる。白磁のカップにオレンジの液体が垂れていた。 底の辺りに指を添えている波留は、カップがまだ充分に暖かかった事を把握する。そして中の液体も、熱をまだ保っていたはずだった。 彼は、膝の上に無造作に置かれていた義体の左手に視線を落とす。オレンジの液体をいくらかまともに被り、スーツの袖口や膝部分にそれを染み込ませていた。露出した手の上にも僅かに液体が残ったままで、上手いバランスで保持されている。そしてその辺りから広がるように、肌が赤くなっていた。 義体は僅かに眉を寄せていた。視線を左手に落とす。しかしその手を動かそうとはしない様子だった。 彼の視界に、焦ったような波留の顔が入っている。そこに淡々とした台詞を投げ掛けた。 「――私のAIには熱感知も備わっていないし、その程度の損傷ならば義体であっても自然治癒する」 つまり、明らかに火傷を負っているような状況であっても痛みは一切感じておらず、その火傷も放っておけば回復する。だから心配するなと言いたいらしい――波留は義体の言わんとする事を悟った。 「…そんな問題ではありませんよ」 しかし波留は溜息をついてみせた。彼が今言った言葉の通りの心情であり、態度だった。 彼はまず、差し出した右手はそのままに、立ち上がった。左手に持ったままだった白磁のソーサーを、そっと傍のテーブルの上に置く。 それから既にカップを底から支えている右手の他に左手も伸ばし、義体の手からカップを摘み上げる。片手でカップを引き、もう片方の手で義体の右手を引いてやれば、素直に指がカップから離れてくれていた。 義体の右手はそのまま力を失い、落ちていこうとする。しかしその手首を波留は掴む。そしてゆっくりと車椅子の肘掛けに戻してやった。 カップの中にはまだ僅かに液体が残っていた。それを落ち着かせ、波留はテーブルの上に先に置かれていたソーサーに、カップを戻す。白磁のティーカップの縁からオレンジ色の液体が零れて線を作り、ソーサーがそれを受け止め若干溜まってゆく。 それから波留は、自らの胸ポケットを探り、白いハンカチを取り出す。彼は再び義体の目の前に跪き屈み込み、ハンカチを二つ折り程度に広げた状態にして、濡れた義体の左手を押さえるようにして液体を吸い取りに掛かった。 肌に零れていた液体はそれ程量が多い訳ではなかったために、ハンカチでも充分にそれらを吸い取る事が出来ていた。白い繊維がオレンジ色に染まってゆく。 水分を得たハンカチを持ち上げると、赤くなっている肌が袖口から覗く。そしてその袖口自体も微妙に色を帯びていた。ベージュのジャケットが他とは違う色をつけ、白のシャツはより顕著にオレンジ色を表していた。それは左手が置かれていた膝の上も同様だった。僅かに濡れ、染まっている。 |