電理研内の喧騒はこの室内には伝わってこない。外部では人工島の危機に直面しているはずだが、この部屋はまるで隔絶しているかのようだった。 そんな静かな部屋で、波留は香りが強い紅茶に口をつけゆっくりと味わいつつ飲んでゆく。それがカップ半ばまでの容量となった時点で、彼はカップから口を離した。カップを下げ、ソーサーに当てる。 彼はその水面に視線を落とした。濃いオレンジの水面には濁りはないし、その濃さも均等だった。表面からは未だに白い湯気が上がっている。 ――これなら久島も文句をつけないかな。彼はそんな事を思い、また少し笑った。 そして彼は前を見た。そこには彼の親友の姿をした存在が沈黙を保ったまま、彼をじっと見ている。表情が浮かばない顔がすぐそこにあった。 波留にとってはそれは久島とは全く違う存在だった。しかし同じ顔を持つ存在でもある。それが自分を見上げてきている。それを見ていると、奇妙な感情が彼の中に湧き上がって来ていた。 そこで波留は口許を綻ばせた。義体を見下ろし、カップを軽く上げて見せた。 「――あなたも飲みますか?」 その波留の台詞に、義体は僅かに身じろぎしたようだった。殆ど動かせない設定になっているはずの手が微かに車椅子の肘掛けの上でずれ、バランスが若干変わったらしく少し身体が揺れる。 「…私が――か?」 行動が変化したせいか、義体の口調すらも僅かに変化したように聴こえる。無表情であるはずの中で、波留はそこに怪訝そうな印象を受け取った。だから彼は微笑を深める。 「ええ。義体でもこの程度の量ならば、飲めますよ」 言いながら波留はカップとソーサーを支え持ちつつ、その場に跪いた。身体を曲げ、車椅子に収まった義体の前に屈み込む。彼の脚はその要求にきちんと応えていた。 そして波留は、車椅子に腰掛ける義体の膝の前にティーカップ一式を差し出した。そのすぐ傍には肘掛けがあり、義体の両手がそこに置かれていた。その手を伸ばせばカップに届くはずだった。 今まで波留を見上げていた義体の視線は、彼が跪いた事で下方修正されている。その視線の先には、波留の白髪とティーカップ一式と、そこに漂うオレンジ色の水面が含まれている事だろう。 その義体は沈黙を保っていたが、やがて微かに震えつつも右手がゆっくりと肘掛けから上がっていった。膝の上を平行移動するように、その手が波留に向かい伸びる。 震える右手を視界に入れ、波留は少し微笑んだ。彼は両手でティーカップ一式を支えていたが、カップの持ち手から指を抜いた。ソーサーのみを持って平行を保つ。そして義体から伸ばされたその右手に、彼はソーサーを持つ手にあるカップ一式を差し出した。 それはぎこちない動作だった。しかし義体の表情には相変わらず何も感じさせない。仮に彼が感情を持つ存在ならば、もどかしさや苛立ちを表情に表した事だろう。だが彼はそのような存在ではなかった。 差し出されたカップ一式の前に来た右手は、指を少し開いた。ゆっくりと人差し指がカップの持ち手に通される。もどかしさすら感じさせる動きでその指が曲がり、力が込められる。そしてその手が上がってゆく。 カップそのものの重量とそこに溜まっているオレンジ色の液体の重量で若干傾きつつも、義体は何とかカップを持ち上げていた。義体の左手も持ち上げようとしたが、そのまま諦めるように肘掛けを滑り降りた。無造作に膝の上に落ち着く。 そのためにソーサーに手をつける事はなく、波留の手に残されていた。汚れひとつない白磁の皿がまっさらな状態でそこにある。 ゆっくりとカップを持ち上げてゆく義体は、そのうちに無言でそのカップを口許に寄せていた。そのまま口をつけ、僅かに啜り上げる。まだ微かに湯気が上がる液体を口に含んだ。 その様子を波留は目を細めて見ていた。彼は何だか微笑ましい気分になっていた。若干その存在に対して、親近感を覚えつつあったのかもしれない。 だから彼は、跪いたまま微笑んで尋ねていた。 「――どうですか?」 「…いや」 対する義体はゆっくりとカップを口許から下ろした。そのまま中空でどうにか保持する。カップから立ち昇る湯気を顔に当てつつも、それを全く気にしていない。 「私には味覚を感じる機能がない」 「…え?」 淡々とした口調でAIが述べた台詞に、波留は怪訝そうな声を上げた。それは彼の予想外の言葉だったからだ。それに対し、義体は無感動な視線を落とす。 「確かにこの義体自体には皮膚に感覚点が備わっている。しかし私のAIではそれを受信して処理する事が出来ない。回路は通っていても設定がないからな」 「…そうですか」 波留は頷くように視線を落とした。手の中にあるソーサーの白磁を見つめる。 確かに会話機能に特化したAIなのだから、無駄の極致と言うべき味覚機能などは排除されていて然るべきだろうと彼も納得する。味覚は、人間ならば身体に害のあるものを口にしないための最低限の防御機構ともなり得るが、人工物である義体では毒物には影響を受けないのだから。 少し考えたならば判るはずだった。それなのに、僕は一体どうしてしまったのだろう――波留は黙り込む。 |