「――何をしている。波留真理」 不意に抑揚がない声で、そんな言葉が静かな室内に伝わってきた。それは波留が聴き親しんできた声であったが、その調子は全く違う。 名を呼ばれた方はそう言う事情で思わず動きを止める。その拍子に持ち上げていたカップが片手にしていたソーサーに接触し、不協和音を立てた。 それ程激しい音を立てた訳ではなかったが、室内が静寂に満ちていたためにやけに大きな音として響き渡る。本来のこの部屋の主がここに居たならば、咎められるような行為だった。 ともかく波留はその音を聴いた事で気を取り直す。カップをきちんとソーサーの上で安定させた。両手でそれぞれを支えたまま、顔を向こうの方へと向けた。 波留の視線の先には、車椅子に収まった人物が居た。しかし先程までとは様子が違う。その瞼はやんわりと上がり、瞳が露になっていた。彼は顔を上げ、波留の方を見ている。 「…起きたんですか」 白髪の老人は苦笑を浮かべた。カップから立ち昇るまだまだ熱い湯気を顎に当てつつ、無感動な表情を保っている相手を見やる。 車椅子の人物を支配するのはAIとしての頭脳であり、元々がスリープモードだったのだろうから、人間のように「起きた」と表現するべきかは謎である。おそらくは何らかの事情で再起動したのだろう。誰も入ってこないはずの室内に動きがあったからかもしれないと波留は見当をつける。 「私はAIだ。起床したと言う表現は適当ではない」 果たしてそのAIは、淡々とした口調でそう指摘した。正論ではあるが、奇妙な拘りであるようにも波留には思われた。やはり人工物だからだろうか――いや、久島本人であってもこのような妙な拘りを見せるかもしれない。似たもの同士か。 「そうですね」 そう言う事を考えつつ、AIのその態度に波留は苦笑を深めた。軽く頷き、そのまま歩みを進めた。カップとソーサーをきちんと支えるように手にしたまま、車椅子の元へと至る。 彼が歩いてゆくに従い、ラベンダーの濃厚な香りが室内を漂ってゆく。その様子を、久島の義体は車椅子に腰を下ろしたまま見上げていた。波留が目の前に至った時点で、口を開く。 「君はこんな所に居ていいのか」 「――と、仰いますと?」 波留は足を止めた。僅かに微笑を口許に浮かべ、親友の姿をした存在に尋ねる。その老人の態度にAIは特に態度を変える事もなく、相変わらず淡々とした口調で告げた。 「現状、地球律が襲来している。電理研では緊急事態だろう」 それは事実であった。だからこそ、電理研内の各部署はてんてこ舞いの状況だったのだ。気象分子の散布を波留達は止める事は出来ず、その結果が現在の「海が燃える」現象の発生だった。 おそらく今、燃えた海が気象分子プラントを崩壊させている状況であるはずだった。そしてその余波は何処まで影響を与えるのか。それはこの久島の姿を借りた存在が彼の知識をもたらした事により、予測が成り立っていた。その中には地球すら燃やし尽くすかもしれないと言う最悪の予測すら存在している。 現在は、そう言う状況だった。しかしそれを把握していてもAIは淡々としており、対する波留も穏やかに微笑んでいた。 「僕は潜る事しか能のない男です。彼らの仕事は彼らに任せます」 波留はAIに対してそう答えていた。皺が刻まれた顔には落ち着き払った印象がある。その台詞は彼にとっては50年前に口にした台詞であり、つい最近も口にしていた。 そして波留は和やかに話を向ける。 「あなたこそ、こんな所で眠っていたのですか」 「私にはそのような表現は適当ではないと先程指摘しただろう」 「はい」 相変わらずのAIの態度に、波留は薄く微笑み頷く。その義体の容貌もあってか、久島もこんな台詞を言うのだろうかと思った。 しかしもしこれが本当に久島当人だったならば、おそらくある程度は感情を込めた声で、つまらなそうな表情をして指摘するのだろうとも彼は思う。やはり決定的に違う点がそこに横たわっていた。 微笑の奥で波留がそんな事を考えていると、義体は把握しているのかいないのか。ともかくその存在は淡々と自分の弁を述べてゆく。 「私の役目は終わった。久島永一朗の知識を伝え聞いた人間達が、それをどう生かすか。それは君ら久島が信頼した人間次第だろう」 「――つまりはお互い様と言う訳ですね。今は自分の出番ではないから、こうして時間を潰している」 波留はそう言って笑った。そして手の中にあったカップを持ち上げ、口をつける。カップを傾けるとラベンダーの香りが彼の口の中に広がっていった。 それを話の終了の合図にするように、久島の姿をした義体は黙った。只波留を見上げている。 その義眼越しに自分はどう映っているのだろうと波留は思う。彼は自分が「親友」との識別がなされているとは訊いていた。そのように判別するよう、AIにプログラムされているのだろう。だからと言って、親しさを演じるような接待プログラムはインストールされていないようだが。 しかし、波留にとっては、このAIは久島の姿をしているし記憶を受け継いではいるが、それだけの存在だった。あくまでも「彼」は久島当人ではない。だから、波留の口調は他人に対するものとなる。やんわりとした優しく礼儀正しいものではあるが、あくまでも他人行儀な態度を選択している。 |