そこに、ケトルが微かに音を鳴らし始めていた。セットしていたミネラルウォーターがお湯と変化したらしい。波留はケトルに視線を落とす。
 波留は親友の影から視線を外した。お湯が沸いたからには、お茶を淹れる事に集中する事とした。
 傍に置いていたポットの蓋を上げる。先程既に茶葉を注ぎ込んでおり、金属製のメッシュの網がそれを受け止めていた。波留はそこにケトルからお湯をゆっくりと注いでゆく。熱湯が湯気を上げて茶葉に掛かり、濡らす。
 ポットの半ば、茶葉が浸る程度までお湯を流し込む。それから用意していたカップにも軽く1杯分のお湯を注ぎ入れる。
 暖めるカップから上がる湯気をちらりと見る。そうこうしているうちに、波留の立つ辺りには良い香りが漂ってきていた。ほのかにラベンダーの香りが彼の鼻腔をくすぐる。
 冷たい室内の空気に、ラベンダーの香りが染み渡ってくる。ある程度の強さになった時点で、波留は白磁のカップを持ち上げるそこに注いでいたお湯を、ケトルの中に戻していた。
 空になったカップをソーサーの上に戻す。持ち手をきちんと方向を変え、位置を整えた。そうしてからポットを持ち上げ、蓋を押さえる。カップの上部でポットを傾けた。すると、その口から細くゆっくりと液体が注がれてゆく。ラベンダーの香りが振りまかれつつも、オレンジ色の液体が白磁のカップを染め上げて行っていた。
 じっくりとポットの中身を注いでゆく。徐々に傾ける角度が急になってゆき、遂には直角になっていた。口から注がれる液体の勢いも衰えてゆき、最後には水滴と化す。しかし波留はその最後の一滴までもをカップに落とし込んでいた。軽くポットを振り、惜しむように水滴を落とす。
 気が済んだ所で、波留はようやくポットを棚の上に下ろした。ティーカップの中には1杯分の紅茶が注がれた格好となっている。ポットに入れたお湯の量が丁度収まっている。絶妙な配分だった。
 波留はカップの持ち手とソーサーに、それぞれの手を掛けて持ち上げる。紅茶の水面に視線を落とした。そこには濃いオレンジの液体がたゆたっている。そこから湯気と共に、ラベンダーの香りが漂ってきていた。彼はその湯気と香りとを顔に当て、目を細めた。
 そして彼はカップを持ち上げる。口許まで縁を持ってきて、軽く唇をつけた。味わうように少量の液体を口に含む。湯温も口に馴染む程度で、濃さも程々に仕上がっている。彼はそれを把握した。
 顔を上げると、そこには窓と向こう側の海が見える。蒼い世界に顔を照らされつつ、彼は濃いオレンジ色の液体を少しずつ味わっていた。
 ――最後に久島のために紅茶を淹れてやったのは、何時だっただろう。彼はふと、そんな事を思った。
 全身義体とは言え、1杯の紅茶程度ならばどうにか体内で処理は出来る。義体工学の進歩により、味覚も失われていない。そもそも視覚や嗅覚で補助されるのが味覚と言うものである。
 そう言う事情もあり、現在の久島も紅茶の味には煩い人間のままだった。それを波留は思い起こす。暫くは車椅子の身の上であった以上、なかなか自分では動き辛い部分があった。
 それでもたまに、この部屋で紅茶を淹れてやったものだった。そうすると、久島は満足げな笑顔を浮かべてくれる。その状景は、つい昨日のものとして、波留の脳裏に遺されていた。
 今はもう、喪われてしまった要素だった。
 
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