室内は綺麗に片付けられている。それは部屋の主の意思であり、或いはあまり利用される事もなかったからでもあった。利用した後もその都度片付けていたものだった。そんな記憶が、波留の脳裏に去来する。
 部屋の空気は冷たい。ここは海底区画であり、空調が利いている事もある。しかし室内に誰も居ないまま日数が経過している事も、その冷気の保持の一端を担っている。少なくとも、波留はそう考えていた。
 波留は溜息をついた。左手に持っているペットボトルを胸の前に持ってきて、両手で弄ぶように数度持ち変える。そのまま彼は室内を歩いてゆき、部屋の隅にある棚に足を進めていた。
 その棚の上に彼はペットボトルを置く。そして彼はその棚の扉を、勝手知ったるように開く。そこから電動ケトルやティーカップやポットなどを続々と取り出していた。
 彼は電動ケトルの蓋を開ける。そして置いていたペットボトルを手に取り、その蓋を捻って開けた。ケトルにペットボトルの中の液体を注ぎ込む。準備が完了し彼が手をかざしてメタル経由で操作すると、ケトルの起動ランプが点灯した。
 それから彼は隣の扉を開け、立方体の缶を手にする。紫色の色合いで、更に色々とプリントされている缶だった。波留はそれを見る。
 ――カルチェラタンか。香りの強いお茶が好きなんだな相変わらず。
 波留はそんな事を思った。口許に口調が浮かぶ。そして缶の蓋を開け、ポットに茶葉をスプーンで入れる。
 その時不意に、波留は背後に気配を感じた。しかし、ここには彼以外の誰も居ないはずだった。この部屋には限られた人間しか入れないはずであり、今となっては波留自身しかアクセス権限がないはずだった。
 それなのに何故――?波留は疑問に思う。その気配に従い、振り返る。室内に視線を巡らせた。
 視線が行き当たった先の部屋の隅に、車椅子に収まった人物が居た。その存在を認めた波留の口許に苦笑が浮かぶ。
 それは見慣れたスーツに身を包んだ、見慣れた顔を持つ者だった。その彼は黙り込んだまま、瞼を伏せている。軽く俯き加減になり、両手を肘掛けに置いたまま身体から力を抜いている状態だった。まるで眠っているような状態であるが、その身体が倒れる事はない。絶妙なバランスを保っている。
 今ここに居る「彼」は、今はもうリアルには居ない久島永一朗の記憶とそこから導き出される推論とを語るためだけに、久島自身によって遺された存在だった。その存在は、久島自身の義体を用い、そこに搭載されたAIによって起動する。しかしその推論を述べる役目を終えた現在、AIは沈黙し義体は全く動作していない。
 あれ以来のこの1週間、「彼」は何処に行ったものかと波留も思ってはいた。確かに波留はあれからの1週間は事務所に戻り自らのやるべき事に没頭し、電理研へは出入りしていなかった。だから「彼」の挙動は全く知る所ではなかった。
 しかし事務所を引き払い、電理研に詰めるようになってからも、「彼」の姿を今まで全く見かけていなかった。どうやらオリジナルの久島とは違い、精力的に出歩く事はしないらしいとは思っていた。
 それが、どうやら、結局この久島の自室に篭っていたらしい。或いは誰かに撤去されていたらしい。波留は今、この状況を目の当たりにして、それを把握した。
 もっとも、久島当人は対外的には「意識乖離によるブレインダウン症状」と言う認定になっている。だから自室療養と言う建前であれば、中身は微妙に違おうが久島の義体が自室に収まっていても不審に思われる事はないだろうと思った。むしろそう言う立場なのに歩き回られては、電理研に伝わる七不思議に新たな1ページを付け加える事になってしまったかもしれない。
 ――それにしても。波留は遠目に車椅子に座る親友の姿を見やりつつ、考えていた。
 「彼」の元になったのは「至高の話手」「夢見せ屋」とまで称されたチャットプログラムだったはずである。そのオリジナルの「彼女」は人間以上に言葉を弄び会話を楽しんでいたはずだが、システム上はその複製である「彼」は必要最小限しか言葉を用いなかった。だからこそ、久島の推論を伝えた後は沈黙し続けているのだろう。
 無駄な行為はしないようにしている久島らしい設定だと、波留は思った。そもそも全身義体だと言うのに車椅子の身になってしまっているのも、会話に必要ない機能を殆ど排除してしまっていたからだろう。だからこそあの程度の容量のAIで用件を賄えたのだ。
 巧妙な隠蔽とセキュリティの都合上、久島はたまたま自らの義体にAIを仕込んだに過ぎない。そうでなければ自らの姿など必要なく、その辺の端末であったとしても構わなかった事だろう。
 室内灯の淡い光を頭上から浴びつつ、久島の姿を持つ別の存在は沈黙を続けている。俯き加減に眠るように瞼を伏せている顔は、オリジナルの久島そのものである。しかし、波留には全く違う存在であると認識出来ていた。
 
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