電理研の制服の上から白衣を纏った職員が通路を駆け抜けてゆく。それは一般常識においてあまり礼儀が宜しくない行動ではあるが、今現在の状況においては似たような行為を取る職員が多い。あちこちの部屋から職員が慌しく出てきては駆け出し、また別の部屋へと入って行っていた。
 電理研のあちこちが非常に騒がしい状況になっている。そんな最中を、波留真理は静かに歩いていた。忙しそうに動く職員の邪魔にならないよう、彼は通路の隅に身体を寄せて通っている。それでも身体を縮こまらせる事はなく、人の流れを読んで回避しつつ彼の道を進んでいた。
 落ち着いた印象を与える青系統の色合いのスーツの上から白衣を羽織ったその姿は、制服こそ着ていないものの研究者然としていて電理研にもその存在は似合っていた。その顔には皺が刻まれており、後ろに纏められて結ばれている白髪は特異ではあるが、高齢である外部の研究者が電理研を訪問しているとの解釈で受け容れられる代物である。
 しかし現状では、その態度が浮いていた。慌しい他の職員や研究者を横目に、静かに歩いている。その左手には水色で透明であるミニサイズのペットボトルを持っていた。その中では透明な液体が入っていて、彼の歩みに合わせてその水面がボトルの中で揺れている。
 その左手首には、スーツと白衣にはあまりそぐわないダイバーウォッチが嵌められている。それもかなりの年代物である。外面は古ぼけているがきちんとレストアはされているらしく、盤面にはデジタル表示で時刻が表示されていた。
 そんな彼に気を止める職員は全く存在しない。自分達の仕事で手一杯である状況だったし、他の部署所属と思われる職員や研究者に干渉する必要自体がないからである。この島の支配の一端を担う電理研とは、人工島に留まらず世界にその名を轟かせる巨大企業であり、一職員がその動向の全てを把握している訳もない。
 ともかく波留は誰にも邪魔される事もなく、或いは誰の邪魔もする事もなく、電理研内の通路を淡々と進んでゆく。彼の歩みの先には徐々に人通りがまばらになってゆき、遂には人影が見当たらなくなった。
 その通路の壁には殺風景な扉が並んでいる。そしてその突き当たりにある壁を切り取る扉の前に、彼は立った。扉の脇の壁に敷設されている電脳コンソールに右手をかざす。
 波留の電脳が、コンソールの電脳にアクセスを試みる。彼は認証コードをコンソールに送信し、それを受け取ったコンソールが淡い光を発した。押さえ気味となっている廊下の照明に僅かに明かりが追加され、彼の顔を照らし出す。
 僅かな起動音と共に、彼の前にある扉が静かに自動に開いた。彼はその中に一歩踏み入れる。
 波留がその身体を室内に滑り込ませた時点で、自動的に部屋の天井に備え付けられた室内灯が起動する。ぼんやりとした暖色の光がその部屋を照らし出していた。
 その光を浴びつつ、波留は中へと進む。そこは彼にとって、見慣れた部屋だった。部屋の中央には応接テーブルやソファーが設置されており、部屋の奥にはオフィスめいたデスク一式や様々な棚がある。
 壁際には人工島の企業らしく、人工物ではあるが観葉植物がいくつか置かれていた。その背景には耐圧ガラス製の窓状の壁があり、その向こうには深い海が穏やかにさざめいていた。海底区画とは言え微かに感じられる上からの光に、海の水が透過され煌く。
 
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