――色々考えておかないと、波留は自らの意識を現実に繋ぎ止めておけないような気がしていた。
 上昇する彼の目の前で、弾け通り過ぎてゆく泡が煌く。彼の口からは短い呼吸が喘ぎのように漏れ、バイザーを曇らせる。そのバイザーに音を立ててひびが走った。
 光が彼の視界にちらつく。波留はふと視線を落とし、自らの腕を見た。その一部が光を帯び、幾何学模様を発しながら弾けている。その模様は身体のあちこちに現れ、徐々に光が彼の身体を侵食して来ていた。
 ――僕のアバターが維持出来なくなってきている…。彼はいよいよまずい状況に陥っている事を自覚せざるを得ない。
 抱き抱えているダイバーは動かないまでも、アバターは大丈夫な様子だった。先にブレインダウンしているために、あまり歌を聞き取れない状況にあるのかもしれないと彼は安心する。
 しかし、自分の状況は圧倒的に悪い事も彼は判っている。――このまま僕が逃げ切れずに脳を焼き切られ――死んだら、ここまで救助に行けるダイバーはすぐには用意出来ないだろう。そうなれば、ここに残される彼はどうなる。
 それは、駄目だ。僕は絶対に生きて、彼を救助しなければならない。それが今回の依頼だ――激痛の中、彼は脳でそう考える。思考で痛みを押し退けようとする。ひたすらに両脚を動かし、全速力で海中を駆け抜ける。ダイバーを抱き抱える腕に力が込められるが、そこには眩しいまでの光が弾けている。
 不意に、歌が掠れた。
 それに気付いた波留は、下に視線をやった。すると少女の動きが停まっている。彼女は一点に留まり、単に波留を見上げていた。その姿は上昇してゆく波留からはどんどん小さくなり、見えなくなってゆく。
 ――僕を追うのを止めた…?何故…?
 少女の姿が遠ざかるに従い歌も小さくなってゆく。そしてやがて、彼の脳には何も聞こえなくなった。
 彼の脳を襲い続けていた激痛が途切れる。不意に意識が緩慢になった。波留の中で張り詰めてきたものが切れた。
 彼は歌が聴こえなくなった今、逆に、意識を手放しかけた。身体が上昇する勢いとそれに付随する浮力に従い、ゆっくりと頭が上がり、喉が反り返る。視界が揺らめき霞み、腕が下がりかける。
 が、彼は、その腕の中にダイバーを抱え込んでいる事を思い出し、すぐに覚醒する。一気に瞳の焦点が合った。
 自分だけが死ぬならいい。しかし、他の誰かを巻き込む事は許されない。僕は彼を助けるために、戻らなくてはならない――波留はそう考えた。
 そして波留は瞼を伏せる。拡散しようとする意識を留めようとする。
 すると、脳裏には親友の姿がよぎった。おそらく今もオペレーションルームで波留を心配し探査していると思われる久島の様子が想像出来ていた。そして事務所に来ているかもしれない少女の姿も思い浮かぶ。こんな所で終わっては、彼女に泣いて叱られると彼はぼんやりと思った。
 ――自分を犠牲にするなど、とんでもない。待ってくれている人々のためにも、僕は絶対に戻らなければならない。波留は決意を新たにした。足で水を掻き分けて浮上しつつ、彼は脳内でコマンドを施行する。リアルとのリンクがなければ彼は帰還出来ない。そしてそれは先程、自分で切断していた。
 掻き消えそうな意識を懸命に保持しつつ、彼はリンクを復旧させるために、脳内で外部からの接続コードを探査した。
 
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