その頃、波留は歌に曝されたままだった。
 彼は片手でヘルメット越しに頭を押さえていた。脳の痛みに目が眩む。彼の視界の隅に見える少女は美しい表情を湛えて歌っていた。
 波留は喉を反らせ、大きく口を開ける。声を上げて気を紛らわせようとするが、あまりの痛みに声すら出ない。彼は声を出す事を断念した。
 声を出そうとしていたが出せなかった事により狭窄していた喉が詰まっている。波留は意識して息をするようにした。大きく息を吐き出し、吸い込む。血流が回復したようなイメージで、僅かに楽になったような気がした。が、痛みを消し去るには全く足りない。
 その息を整えつつ、彼は少女を睨み付けた。あまりの激痛のせいか、自身の目許が潤んでいるのが判る。――今、リアルの自分がどんな状態になっているのかあまり考えたくはないなと、不意に思った。何せメタルのアバターですらこんな状況なのだから。
 しかし脳に多大な負荷が掛かっている自覚はあった。このまま歌を聴き続けていれば、おそらく脳を焼き切られるとも。自分だけならまだしも、今肩を貸しているダイバーもこのままでは殺されてしまう。
 波留は唇を噛み締めた。震える腕をダイバーに回し、庇うように抱き締める。胸に彼の頭を押し付け、抱え込んで保護する。脳に直接攻撃を仕掛けられているならば、この防御には意味がないかもしれない。しかし波留はこのダイバーを守ろうとした。
 水を蹴った。彼は浮上を開始した。生き残るためには、出来る限り早く逃げなければならない――酷い頭痛の中、彼はそう決意し、行動に移す。ダイバーを抱えている両腕は使えないために、脚を懸命に動かして水を掻き分ける。
 下に目をやると、少女の髪が海水に揺らめいていた。明るい金髪が光を帯びて水に煌く。
 しかし彼女も波留の行動の変化に気付いたように視線を上げる。ふわりと髪が大きく流れ、両腕が横に突き出された。その腕が1回大きくはためくように動き、水を掻き分ける。その動きに拠るのか、彼女はゆっくりと浮上を開始した。
 それ以降は彼女の身体は全く動かなかった。只、先程の勢いを保持したまま、浮かんでくる。脚すら動いていないのに、波留を追うだけのスピードを維持していた。
 彼女は真上に居る波留を見据えたまま顔を動かさない。彼女の唇は唯一動いたまま――歌は続いていた。それは波留の脳を侵食し続けている。
 このままでは僕は死ぬ。――彼女に殺される。
 歌いながら、顔に微笑を張り付かせたまま自分を追ってくる少女を見下ろしながら、波留は本気でそう覚悟した。アバターと言う事を差し引いても明らかに人間の動きをしていない少女に、彼は恐怖すら感じる。
 今回のダイブはあくまでも救援要請に拠るものだった。だから彼は出来る限り身軽に動くために、防御プログラムも攻撃プログラムも特に持ち合わせていなかった。ダイブにおいてアンダーデコイは標準装備だが、あくまでもそれはメタルの海洋上の危険から身を守るためのものである。このような攻撃プログラムに対しては無力であり、それには専用の防御装備を必要とした。
 ――彼女はそもそも何だ?攻撃プログラムのアバターにしては、やけに動きがいい。自発的に動いているようにも思える。
 となると――無認可ダイバーのアバター?電理研公認のダイバーでないならば、ダイバースーツ装着者以外のアバターを使っていてもおかしくないのかもしれない。それが、面白がって、他のメタルダイバーを通り魔のように襲っている?
 歌が攻撃プログラムと言うのも、彼は訊いた事がない。メタル内において、各種プログラムは使用するダイバーの想念によって様々な形を取るが、その形状が違えど各々同一のプログラムを走らせている。攻撃プログラムならば剣や斧や槍やモリと言った様々な形状があり得るが、その全てはソースコード上では同一である。
 性能面のマイナーなコーディングは各ダイバーの自由だが、基本設計仕様は変わらないはずだった。しかし、アバターの形状を取らずに直接脳に働きかけてくる攻撃プログラムなど、波留には訊いた事がなかった。
 ダイバーが電理研に厳しく管理されているメタルにおいては、彼らが使用するプログラム類にも規制が敷かれている。だとすれば、これはアンダーグラウンドな攻撃プログラムである事は明白であるように、彼には思われた。
 
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