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電理研最深部に位置するこの区画には、滞在している人間は居ない。だからこそ、この義体は隔離とも軟禁ともつかない状態に置かれたまま、それを受け容れている。薄暗いプライベートルームにて静かに沈黙しアバター空間への接続を持続していても、それを邪魔する訪問者がやってくる事態はそうそうなかった。 リアルの部屋と同様のアバターを構築しているこの部屋も、接続しているふたりが動作しなければ沈黙に包まれている。もっとも、アバタールームに過ぎないここでは、ガラス壁の向こうに映る暗闇は海ではなく何も設定されていない無の空間だった。深海魚の姿を垣間見る事もない。 「――…久島の記憶について、久々に質問してもいいですか?」 「私に答えられる事ならば、応じよう」 室内の沈黙を破った波留からの問い掛けに、久島のアバターはデフォルトの対応を見せた。久島永一朗から継承した記憶と知識の管理と適当な相手への開示――本来彼が「マスター」から準備されるに至ったその役割を果たそうとする。 その対応に、波留は軽く頷いた。感謝の意を示すように会釈して見せる。そして口許に微笑を浮かべ、彼は申し出た。 「…久島の…――最期の記憶を、お訊かせ下さい」 ――久島当人を思わせるまでに記憶を受け継いでいるのならば、その辺りの事も語る事が出来るはずだ。ならば、今や当人から訊ける訳もない、当人しか知らないはずの今際の記憶を、ここで語って欲しい――そう波留は願っていた。 この波留の申し出を耳にしたアバターは、僅かに身じろぎした。意外そうな顔になり、目の前の黒髪の青年を見上げる。窺うような視線を向けた。 やがて、彼は視線を落とす。軽く溜息をついたような呼吸音が僅かに響いた。そのまま眉間に皺を寄せ、俯いたまま沈黙する。黒色のモノリスに彼の顔がぼんやりと反射した。 「――………その日は、君の検査に同席した」 「ええ…」 波留を見ないまま、俯きぼそりと呟いてくるアバターの言葉に、波留は頷いた。目を細めるとその言葉に記憶を刺激されたか、彼の脳裏にもその情景が回想されてゆく。 その頃には、老人の容貌だった波留は杖をついてではあるが、自らの脚で歩けるようになっていた。 樹海でのメタルダイブを経て、彼は久島やホロンに無断で密かにリハビリめいた歩行訓練を行っていた。そして確実に歩けるようになったこの時、医学的検証を与えるために検査へ向かったのだ。 それに、多忙なはずの久島は付き合ってくれた。「私は君の保証人だからな」と当然のような顔をしていたと、波留は記憶している。 検査を行った主治医は一様に驚きの表情を見せていた。「ここまで回復した患者を、私は知らない」と言わしめる程だった。それに対して、傍らの久島は平然としたものである。「お前が目覚めた頃から、歩ける確証はあった」と言ってのけたのだから、相当の信頼がそこにはあった。 その帰路には、人工島にしては標高が確保されている眺めが良い場所のベンチに並んで腰掛けた。親友達はその木漏れ日の中で、他愛のない話に興じたのだった。 ――また、海に行ってくれないか。 君が歩けるようになった今、リアルの海に潜り、調査するための打ち合わせをそろそろしよう。 そのためにも、明日の朝、私の部屋に来てくれ。 あの日のあのベンチにて、波留は久島とそんな約束を交わした。 「その後、人工島入植20周年式典に向けての臨時評議会に出席した。その場で、気象分子プラントの稼働延期を提案した」 「そうですか…」 ――…臨時の評議会でね。現在の地位からの降格もあり得るかもな…。 ――まさかそれが、最期の会話になるとは思わなかった。 見送ったあの背中が、最期に見た久島の姿になるとは思わなかった。 後々思い返してみたら、久島最期の言葉は充分に不穏な台詞ではあった。しかしこの当時には、地位ある人間にはあり得る権力闘争の一種なのだろうと波留は判断していた。そして久島自身は地位には執着しない人間だと、波留は知っていた。 だから、仮に降格されても大して気にはしないだろう。むしろ電理研のしがらみから解放されて自分の研究に集中出来るのならば、望む所ではないだろうか――そんな風に、波留は軽く考えていた。或いは、考える事すらせずに、流してしまっていた。 後に波留は、その判断を悔やむ事となる。そして彼同様に、周辺の人々も後悔した。あの事件は未然に防げなかったのかと、誰もが自らを責めた。その自責の念は周辺の人々に留まらず、電理研職員やその他島民にすら大なり小なり影を落としている。 だが、実情としては、誰も責める事は出来ないだろう。「楽園」を標榜し、その評価を誰もが認めていた人工島にて、重要人物の暗殺未遂事件が勃発するなど――7月16日以前の島民の誰が予測可能だったろうか? 久島当人すら、その可能性を認識していなかったはずだ。仮に予測していたならば、警護用として公的アンドロイドを付き合わせる日々を送っていただろう。あの時点で暗殺を想定したのは、それこそ久島の脳核を拉致した当人しか居ないだろう――。 久島のアバターから紡ぎ出される回想めいた台詞に、波留もまた記憶を掘り返している。その手を進めるにつれ、胸の痛い部分に触れる気がした。 そんな波留がふと気付くと、後に言葉が続いていない。久島のアバターは俯いたまま沈黙していた。両手をモノリスの上で組み合わせ、口を噤んでいる。垂れた前髪が擦れるように一房、落ちた。 「――どうかしましたか?」 波留は久島のアバターの頭頂部を見下ろしつつ、怪訝そうに訊いた。そのアバターは、モノリス上で絡めた指を動かそうともしない。フリーズしてしまったのではないかと疑いたくなるような状態だった。 不意に、アバターの肩が揺れた。彼はその先にある両手を組み換える。掌同士を擦り付け合った。 「………その後は…――私の記憶にない」 俯いたままのアバターは、小さな声を発した。 「え?」 「私はその後の事を覚えていないし、そもそも思い出したくもない」 続く言葉に、波留は首を傾げた。疑念を抱く。 ――彼は、久島の全ての記憶を回収した訳ではないのだろうか?まだメタル内から収集出来ていない記憶が存在するのか、それとも久島の記憶自体にその瞬間のものが遺されていなかったのか。どちらの可能性も考えられた。 しかし、波留にはAIの弁が気に掛かった。――思い出したくないとはどう言う意味なのだろう。微笑みを浮かべつつ、そこを指摘した。しかし波留自身、その笑みに含まれる成分が如何なるものなのか、自分の事ながら良く判らなかった。 「AIなのに…人間のような事を仰るのですね」 「確かに私はAIに過ぎない。しかし機械体に過ぎない我々とて、終末記憶を手繰る行為は推奨されないのだ」 何処か棘を含んだかのような波留の発言に、久島のアバターは顔を上げる。ついと視線を持ち上げ、眼前に立つ黒髪の青年を見上げた。その瞳は義眼特有の紫色の虹彩を持っている。そこに映る感情めいた光は一切存在しない。 「我々にとっては、機能停止時のログを追体験するようなものだからな。どうしてもAIに多大な負荷が掛かる。だから、通常起動中におけるこの行為の実行には、拒否反応を示すようになっている」 「…成程」 波留は頷いた。そこまで言葉を費やされた時点で、彼にもAIの主張は理解出来た。つまり、臨死体験を試行して尚、必ず現世に戻って来られるとは限らない――そんな感じなのかと思った。「臨死体験」がシミュレーションであるにせよ、その精度が現実並に高かったならば、リアルの意識が危険に見舞われる可能性も高くなるだろう。 そして人間と違い、AIにはマインドコントロール機構が存在する。不必要な負荷が掛かる行為は無意識のうちに回避しようとしてもおかしくはない。 たとえそれが、人間からもたらされた命題であったとしても、彼らには回避機構が備わっているはずである。AIの行動原理は人間への絶対服従を大前提としている。しかし人間からの無理解などから、無意味に機能停止に追い込まれては、結果的に人間が所有する動産としての彼らの価値を無に帰す事になるのだから。 「だから、仮に君が興味本位でそれを私に質問しているならば、その命令は取り下げて貰えないだろうか」 「…そうですね。申し訳ありませんでした」 波留は納得し、AIへの質問をキャンセルする意思表示を見せた。 「興味本位」と評されては聞こえが悪い。多少気分を害する要素はない訳ではない。しかし波留としても、「久島の最期」とは今どうしても知りたい情報と言う訳ではなかった。何時かは解き明かしたい謎かもしれないが、このAIに無理を強いてまで回収させ吐き出させたい命題でもない。 ――誰が、久島をあんな目に遭わせたのか? その解答は、評議会の捜査と報告によって、ほぼ解明されている。ではその時、久島が何を想っていたのか――このAIを頼ればそれを訊き出せた可能性はあるのかもしれない。しかし、それを成すには引き換えにする犠牲の方が大きいようだった。 もっとも、久島自身が、自らの死の瞬間の記憶を他者へ開示したいのかは、大いなる謎である。たとえそれが「親友」である波留相手であっても、久島には拒否する権利はあるだろう。それを鑑みれば、波留も無理強いしてまで記憶を入手する気分にはなれなかった。 彼の眼前のアバターは、義眼の紫を晒して視線を合わせてきている。そんな視線を向けられるのは、波留には良くある事だった。これはAIが人間からの命令を待つ際の態度だと、彼はホロンを扱ってきた体験から良く知っていた。 |