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波留真理と言う人間は、何処まで行っても穏やかであり周囲の状況に左右されず自らのペースを崩さない。私は久島永一朗から与えられた知識により、それを知っていた。 私の元を訪れた彼は相変わらず落ち着き払っている。彼を見ていたら、電理研の外部ではいよいよ地球律が発動し始めており、海が熱を発しているなど思えない。 既に私の役目は終わっていた。波留を始めとした久島永一朗が認めた人々に、その推論を伝えた。そして彼らはそれに基き事態の収拾に奔走しようとしていたが、現状は今正にデッドラインを踏み越えようとしていた。最早猶予はないはずである。 そして彼は最後の手段を用いようとしていた。地球を救うためにその身を深海に投じようとしている。 …だと言うのに、何故彼はこの段階において、私の部屋を訪れているのだろう。役目を終えたこの私の目の前に立っているのだろう。 もっとも、実の所、彼には私の存在は眼中になかった可能性が高い。私が今居座っているのは久島永一朗のプライベートルームであるのだから。 役目を終えた私は人前に出る事は適わない。「ブレインダウン症例に陥っている」はずの久島部長が、車椅子姿とは言え健在で動き回っている絵面を晒しては、例えそれが彼のホームたる電理研内であっても、一般職員相手に多大な混乱を巻き起こす事は想像に難くないからである。 そして波留は、我がマスターの部屋を訪れていた。その行動原理とは、おそらくは「決別」だろう。 5000m級の深海に生身の人間がダイブした場合、如何に安全性を確保しようとした所で確実な生還は確保出来ないだろう。それは人間にも機械体にも、未踏の領域だからだ。 更に現状は、地球律が襲来していた。海は荒れ地球を滅ぼしかねない状況下にある。その深海でも何が起こっているかは一切謎だった。マスターが推測しているように「深海とメタルの最深部が接続関係にある」のが事実ならば、波留は深海に到達した時点でリアルの存在ではなくなってしまうかもしれない。 そうなれば、彼はもうリアルには帰還出来ない。そうでなくとも単純に生命を失う可能性も高い以上、この「懐かしい場所」を最後に味わっておきたい心境も判る。 私はそんな場所にたまたま居座っているだけだ。彼にしてみたら、静謐な部屋を汚す邪魔な存在かもしれなかった。 ともかく彼は私の前に立っている。白髪を後ろに纏め上げ、皺の寄った顔には柔和な表情を浮かべている。青系のスーツに白衣を羽織った姿には清潔感が溢れている。この電理研にはあまりそぐわないような存在だった。 不意に彼は微笑みを深めた。自らの左手に軽く視線を落とす。その手首に右手の指を絡ませた。何かをごそごそと始めているが、車椅子の身の上である私には影になって良く判らない。 やがて、彼は私に向き直った。そして私の足元に屈み込む。私の左手を取って持ち上げ、何かを巻きつけてゆく。 私はそこに視線を落とした。それは黒いベルトのようでいて、古ぼけた金属が円形のデバイスを成している。おそらくそれはダイバーウォッチと呼ばれる類の機材だった。私には馴染みがない代物だが、リアルの海におけるダイバーでもある彼には長年使用してきたものだろう。 彼はそれを私の左手首に装着して行った。自らの手首に嵌められていたものをそのまま私に渡した事になる。 私はその行動を訝しく思う。これは彼が大切にしてきたものであるはずだ。私に受け渡され間近で見やると、それが相当なアンティークである事が判る。おそらくは彼同様に50年前から継承されてきたものなのだろう。 「…何のつもりだ」 疑問をそのまま口に出す。それに対し、彼は微笑んだ。 「あなたに差し上げますよ」 それは僅かに、はにかんだような笑みだった。何処か照れ臭いような印象を受ける。 私はそれに意外な印象を受ける。彼もそのような表情を浮かべるのかと思う。 「これは今まで僕に付き合ってくれていたものです。それを、このダイブで壊してしまうのは気が引けます。だから、あなたが持っていて下さい」 ・ ・ ・ 彼は私のマスターではないのだから必ずしもその命令に従う必要などないのだが、それでも私は何故かそれを絶対遵守しようと心に決めていた。 おそらく私は、命令に飢えていたのだ。それがなければ、人間に絶対服従する私には存在意義が果たせないのだから。 |