電理研の海底区画の一角にある通路にて、スーツ姿の女性が腕を組んで立っている。彼女は胸が大きく開いたジャケットにミニスカートと言ういでたちではあるが、眼鏡の奥に知的な瞳を隠している。
 彼女はじっと通路の先を見据えている。眉を寄せ口許は噤み、沈黙していた。
 その隣には、長身の男が立っていた。黒地の服の上から黒いコートを着込んだその姿と、短く刈り込んだ黒髪は厳つい印象を与える。
 彼は腕を後ろ手に組み、やはり通路の先を見ている。そんな中、視線も向けずに隣の女性に話を振った。
「――御不満ですかな?ファーストプリンセス」
「不満と言えば、その通りね」
 かつて彼女がそう呼ばれた肩書きのせいなのか、それとも男の言葉の内容そのもののせいなのか。彼女はますます眉を寄せて答える。台詞自体にもそれは現れていた。
 しかしその視線を気にせず、男は薄く笑みを浮かべて続けた。
「あなたが腹を立てる事ではないでしょう。いつものようにせせら笑っていればいい。あなたは自分の手を汚す事無く、最大の政敵をふたり纏めて片付けてしまったのだから。その上、新たな敵になり得たダイバーは未電脳化状態に陥り再電脳化する気もないと言うのだから、笑いが止まらなくて然るべきだ」
「…あなた、私の事をそんな目で見ていたの?」
 彼女は心外そうな表情を浮かべて顔を向けた。それに対し、男は涼しい顔をして通路の先を見やったままだった。
 しかし、その口許から笑みが消える。それに気付いた女性も、彼の視線を追った。通路の奥を見やる。
 若干の規則性を持ってこつこつと言う音が響いてきた。それに従うように靴音と、たまに何かを引き摺るような音がする。
 その音を発する正体は、間も無く彼らの目の前に現れた。黒髪の青年が右腕で松葉杖を突きつつ、通路の奥からやってきていた。足元を気にするように俯き加減で足を進めて来ていたが、待っている人々の傍に来た事で彼は顔を上げた。口を真一文字に結び、待ち人ふたりの顔を見やった。
 そして軽く頭を下げる。綺麗に礼を出来ないのは松葉杖を突いているせいでもある。彼のその姿に女性は僅かに口許を歪めたが、それだけだった。
 青年は女性のその態度には気付かない様子だった。一礼した後にそのまま彼らの隣に並ぶ。そしてすぐに、彼の進んできた通路の向こうから別の音が響いて来ていた。緩やかで滑らかな車輪の音が、静かな通路の空気を微細に揺らす。
 そこに、公的アンドロイドが車椅子を押して来ていた。一般の公的アンドロイドとは違う形式の眼鏡を掛け、髪形もひとつに結い上げている。そしてその左手の袖口からは銀色に輝く物体が垣間見えていた。
 そして車椅子に腰掛けているのは、壮年の容貌を持つ男性だった。スーツ姿ではあるが、その上はジャケットを脱いでベストを羽織るだけとなっている。
 瞼を伏せ俯き加減の状態でじっと座り、移動させられるに任せている。褐色の前髪が目許に落ち込んでいるが、特に気にする様子もない。肘掛けに置かれたそれぞれの両手も動く兆しを見せなかった。
 三者の前で車椅子は止まる。そしてそれを見計らったかのように、車椅子の人物はゆっくりとその目を開き始めた。
 その目の前に手が差し出される。彼の前に立つ黒服の男が軽く屈み込み、握手を求めるかのように右手を伸ばしてきたのだ。
 彼はその手を一瞥し、次いで自らの右腕を見やった。そして肘掛けに置かれた右腕が震える。妙に力が篭ったような印象で、その腕がゆっくりと持ち上げられる。差し出された手に応えるように、彼は右手を挙げていた。
 その腕は普通の人間のように自然に動かない。手も強張ったように若干曲げられたままだった。その手が時間を掛けて持ち上げられ、遂に黒服の男の右手に触れようかとしたその時、男の手がすっと引かれた。翻った手が男の胸元まで戻る。
「――やっぱり、止めておきましょう」
 彼はそう言い、口許に笑みを浮かべた。車椅子の人物に対し、軽く一礼をする。そして周囲の人々にも挨拶のように会釈した。その間も微笑みは口許から絶える事はない。
「それでは皆さん、お元気で」
 挨拶を終えた彼は、全ての人々に背中を向けた。軽く右手を上げ、そんな台詞を残した。後ろを振り返る事無く、逆の方向へと歩き始める。その逆方向の通路の向こうには、秘書めいたスーツ姿の女性が畏まって立っていた。



 諮問委員会を統べ気象分子協会の長を務めたジェニー・円の背中に対し、人工島評議会書記長であるエリカ・パトリシア・タカナミは伏し目がちに軽く頭を下げた。そしてその姿勢を暫く保つ。
 隣に立つ電理研統括部長代理の蒼井ソウタには、彼女のその態度は精一杯の敬意を表しているように思えた。彼もまた、不安定な姿勢を崩さない程度に頭を下げて見送る。
 彼らの隣では車椅子に座っている人物が、その様子をじっと見ていた。その瞳は無感動であり、口許から何の台詞を発する事もない。
 肘掛けに両手が戻っている。右手を動かした事で、連動するように左手も若干位置がずれていた。
 その袖口からは、スーツに合わせるようなシャツには似合わない古ぼけて大振りなダイバーウォッチが覗いている。








第3話
神は沈黙する
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