「…まさか、それをわざわざ俺に言うために、こんな寝る前に、来たのか?」
 ロイエンタールの口から、怪訝そうな声が出た。
 彼にとっては、本当に「まさか」と言う心境だった。そんな事実など、明日の朝に出会った際――例えば食堂で朝食を一緒に摂る事が多いのだから、その時に言えばいいだろうに。そう思ってしまうのである。
 気付いたが最後、早く伝えなくてはならないとの焦りにも似た子供っぽい感情が浮かんで、そのまま行動してしまったのだろうか。だとしたら、正に子供であると彼は思う。そんな感情任せに、他人の安眠を邪魔したかもしれないと言う考えはないのだろうか。
「………まあ、そうなんだが…」
 ミッターマイヤーは頭を軽く傾け、髪に手をやった。俯き加減の顔には苦笑いが浮かんでいる。前髪を掻き上げ、それから豪快に髪を掻き回す。伸びた前髪が目の辺りまでを覆い隠したりした。大尉の軍服を着ていなければ、とても大尉には見えない態度である。
 何かを言いかけたまま、ミッターマイヤーは二の句が告げない。とは言え次の言葉が存在するようなので、ロイエンタールはそれを待った。
 何時からか、ミッターマイヤーのテーブルの上に投げ出されたままの片腕の先では、人差し指がとんとんと木目を叩いていた。爪ではなく指の腹が当たっているらしく、硬い音はしない。部屋に備え付けられた時計の秒針とは、微妙にタイミングが合わない叩き方だった。
 そのとんとんと言う音が若干遅くなり、そして止まった時に、ミッターマイヤーは口を開いた。
「――えーと…――シュテファンは悪い子ではないぞ」
 普段の口調とは違い、少々歯切れが悪い。ミッターマイヤーは言葉を選んでいるようだった。
「何だ唐突に」
 対するロイエンタールは悠然と構えた。再び腕を組み直す。椅子に深く背中を預け、その椅子が僅かにぎしりと軋んだ。
 しかし、口では唐突と言ったが、実はそれこそが本題でなければおかしいと彼は思っていた。
 何せ、食堂ではミッターマイヤーは、シュテファンの台詞を途中で遮ったのである。あれは故意でなければ出来ない所業であり、また本当に偶然であり他意なくやった事ならばシュテファンに謝罪していた行為だろう。
 つまりはミッターマイヤーは、シュテファンのあの台詞を絶対に言わせてはならないと思って、あのような言動に出たのだ。それが判らないロイエンタールではなかった。
 何が気になったのか、そこまでは判らない。ロイエンタールはミッターマイヤーに対して、自分の出自を詳しく説明した事はないからである。
 彼は最小限の公開データ上のプロフィールすらミッターマイヤーの素性を知らなかったし、おそらく相手も同様であったろう。ロイエンタールはミッターマイヤーの実家が庭師であったとは初耳だったし、おそらくはミッターマイヤーもロイエンタールが伯爵家と血縁が――と耳に入れかけたのは初めての事だったろうと、ロイエンタールは判断している。
 そんな事を考えていたロイエンタールの耳に、ふうと溜息をつく声が聴こえてきた。釣られるように顔を上げると、視線の先のミッターマイヤーは姿勢を正していた。テーブルに投げ出していた腕と頬杖をついていた腕とで、腕組みをしている。互いに似たような姿勢をしている事になった。
「卿はあの子を気に入っていないようだがな、あの子はいい子だぞ。良く気を遣ってくれる」
 伏目がちに眉を寄せ、溜息混じりにミッターマイヤーはそう言った。
 その台詞にロイエンタールは一瞬驚いた顔をした。しかしその一瞬後には、鼻で笑う。組んでいた腕を解く。
「後方支援とは言え、戦場に来ておいて子供扱いか」
 唇を僅かに釣り上げて笑い、片手でミッターマイヤーを指し示しつつ、ロイエンタールはそんな事を言う。――他の連中があの子供に優しいのは、あくまでも「子供」としか見ていないからだ。そんな主張を言外に滲ませていた。
 ミッターマイヤーは対面する人物からの批判を真正面に受け止めていた。腕組みをしたまま、微動だにしない。俯き加減のまま、淡々と言葉を続ける。
「別にそう言う訳じゃないんだがな。卿はあの子が幼年学校生だろうが任官済みの准尉だろうが、態度にあまり差をつけないだろうから」
「ほう…」
 ロイエンタールは面白そうに笑い、顎に手をやった。このミッターマイヤーの返答は、ロイエンタールにとっては意外なものだったからである。
 ――しかし、そうなると――つまりは、俺はあの子供を未熟さからではなく、単に一個人として嫌っていると、こいつは思っている訳か。そうならば、ますますもって救いがない事だろうな。彼はそう思い、笑いがこみ上げてくる。ついつい、偽悪的な態度を取ってしまう。
「そこまで俺の気持ちを判っているのならば、最早説得なぞ無理だとも判っておろうに」
 ロイエンタールは顎を撫でながら、唇に笑みを浮かべてそう言った。俯いたままのミッターマイヤーに、その表情は見えないだろう。が、声質に混ぜられた笑みから、相手がどのような顔をして発言しているのかは推測出来た。
「まあな…只」
 そこでミッターマイヤーの言葉が途切れた。不自然な部分での台詞の終わりに、ロイエンタールは言葉尻を捉えて繰り返す。
「――只?」
 その先を促す言葉に、ミッターマイヤーは即答しない。飲物もないままに喋り過ぎたのかもしれない。軽く咳払いをしてみせ、唇と喉とを自力で湿らせる。しかし動いたのはそれだけだった。組んだ腕を組み替える事もしない。
「――…あの子に悪気はなかっただろう事だけは、判って貰いたかった」
 この答えに、ロイエンタールは思わず首を傾げた。皮肉げな表情を浮かべていた顔が、素に戻る。彼は本気で訳が判らない。素直にその気持ちを言葉にする。
「卿があの子供に頼まれた訳ではあるまいに。何故そこまで気に掛ける?」
 返答はない。相変わらずミッターマイヤーは俯き加減で腕を組んだ姿勢のままだった。
 おそらく、本人にも判っていないのだろう。ロイエンタールは下がり気味の蜂蜜色の頭を見詰めつつ、そう思う。
 判らないが、このままでは確実に良くないとは思っているから、とりあえず来た――そんな感じだろうか。夜に押し掛けられた側からしてみたら傍迷惑な話ではあるが、これがこの男の本質なのだろう。
 おそらく、世間一般的にはこれは好ましい性質であるはずだった。今、こうやって押しかけて来られている自分ですら、好ましい目で見てしまうのだから。

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