彼女は妻としての礼儀を完全に守る、出来た人間だった。夫とその友人の間柄に、無遠慮に割り込んでこない。だから俺はこの家でも、俺の屋敷と変わらない会話をミッターマイヤーの奴と交わす事が出来たのだった。
 おそらく、この今も、特に俺達の会話を聴いていた訳ではないのだ。その手にはトレイがあり、その上にはワインの追加とまた新たな軽食が乗せられていたからだ。時間的にこれが最後の訪問であり、就寝の挨拶も兼ねるつもりであったに違いない。
 俺は彼女をぼんやりと見つめていた。それはミッターマイヤーの視線を追った結果であった。俺はミッターマイヤーが何故こんなにも衝撃を受けているのか、理解していなかった。彼女が今ここに居る事が、奴にはどうしてまずい事なのか、判っていなかった。
 奴のグレーの瞳と、俺の金銀妖瞳からの視線を集中されていた彼女は、ふと気付いたように微笑んだ。ある程度の重さがあるであろうトレイを掲げたまま、いつものように軽い足取りで俺達ふたりのテーブルに歩いてくる。
 そして彼女は手早くテーブルの上を整理する。残った料理を1枚の皿にまとめ、他の皿を積み上げる。空瓶をテーブルの隅に寄せてしまう。そしてトレイの上のよく冷えた追加のワインや料理の皿を、新たにテーブルの上に乗せてきた。
「私はそろそろ休ませて頂きますね。おふたりはごゆっくりどうぞ」
 皿の山をトレイに乗せ、片手には空瓶を数本指で挟みつつ、彼女は夫と俺にそう微笑みかけた。その表情は、普段と変わらないように俺には思えた。――特に彼女と関係がない、俺だからそう思えたのだろう。
「――エヴァ」
 ミッターマイヤーが、彼女の名を呼んだ。その顔は笑顔であったが、少しだけ表情が強張っていた。おそらく奴は上手く誤魔化したつもりなのだろうが、長い付き合いである俺にはその強張りを見抜く事が出来た。それを俺は奇妙に思う。
 そんな夫に対して、妻は微笑んだ。
「ウォルフ…お気になさらず」
「…ああ」
 短い会話だった。が、それは奇妙な事だった。「気にするな」と言い、それに対して頷くという事は、逆説的な意味合いが強いだろう。この場で、何か気にするような事があったのだ。
 ミッターマイヤーの妻は、いつものように礼儀は完全に守っていた。扉を軽く開け、その身を向こう側に通すと、彼女はこちらを向いて軽く会釈をした。そしてそのままの姿勢で扉をゆっくりと閉めていく。扉は微かな音を立てただけだった。貴族の家のメイドにも見習らせた方が良さそうな程に、完璧だった。
 俺は彼女の奇妙さを怪訝に思った。が、それは表面には出さないまま彼女の姿を視線で追っていた。それも適わなくなると、俺は視線を室内に戻す。
 ミッターマイヤーが片手で両瞼を押さえるようにして、顔を覆っていた。もう片方の手はテーブルに突いており、指を滑らせ軽くそのテーブルを叩く仕草をしている。
 俺の動きで微かに布地が音を立てたらしい。ミッターマイヤーは顔を覆う手を僅かにずらし、片目を俺に向けた。そこから見えるグレーの瞳が俺を見やっている。微かに物憂げな印象がそこにある。――どうかしたのかと俺は問おうとした。
 が、ミッターマイヤーは「疾風ウォルフ」であり、すぐに手を下ろしてにこやかに笑ってみせた。嬉しそうに笑い、何かを言いながら新たに差し入れられたワイン瓶に手を掛ける。俺の気勢を制し、ワイン瓶を傾け、俺のグラスにそれを注ぎ始める。
 俺は赤い液体が親友の手で自らのグラスに注がれていくのを見ながら、今までの情景を脳内で反芻していた。――何があったのか、何か彼らの気に掛かったのか。俺はそれを考えようとしていた。
 俺は奴と普段のように会話をしていて、そこに彼女がやってきた。それはいつも通りの事ではなかったろうか――?何故今回に限って、このような事に?それは、何か俺は言ってはならない事を言ってしまったという事か?しかし別に変わった事は…――。
 ――俺は、自らが言った台詞に、気付いた。
 「ロイエンタール家は俺で終わり」「迷惑な種を遺さずに済む」――。
 …そうか。彼らには、未だに子が生まれぬのか。
 彼らは結婚しているのだから、子が生まれる事を望まない訳はない。なのに、彼らの元には子が訪れない。
 俺はそれを知っていたが、彼らはそれを別に気にしていないと思っていた。ミッターマイヤーの奴は特に何も言わないからだ。
 が、しかし、今の態度を見る限りでは、気にしていたのだろう。
 少なくとも、妻の態度は、明らかに気にしていた。
 ミッターマイヤーは、奴自身が俺からあんな台詞を浴びせられた程度では、苦笑するだけなのだろう。しかし、妻にそれを聞かせたくはなかったのだろう――。
 しまったと俺は思わざるを得ない。
 彼らが結婚して7年にもなるだろうか。その間、俺は礼儀だけは守ってきて、奥方に嫌われるような事はした覚えはなかった。俺は彼女の事はどうでもいいが、彼女を傷付けるような真似をしてはミッターマイヤーも愉快ではいられないだろうからだ。女が理由で、俺は親友を失いたくはなかった。どんな些細な事であっても、俺は親友から嫌われたくはなかった。
 ところが――どう考えてもこれは、大失態だ。
 まずい事をしてしまった。俺は手の中のグラスになみなみと注がれた液体を見やりながら、そう思った。

[next][back]

[NOVEL top] [SITE top]