彼女は客人を待たせる事をしなかった。かなり早く、居間に戻ってくる。しかし足取りは軽やかながらも慌ててはいない。ある種の上品さを醸し出していた。彼女が掲げる盆の上からは、再びコーヒーの香ばしい香りが漂ってきていた。
 俺は再び彼女が淹れてくれたコーヒーを口にした。相変わらず、砂糖も何も入れる事無く。その味は最初と全く変わらない。あの旨さはまぐれでも何でもなく、彼女の普通であると判断していいようだ。
 暫し、コーヒーの味を口の中で転がしていた。が、俺は彼女に言う。
「――今更、失礼な話だが」
「はい?」
 俺は彼女を見ないままだった。しかし俺の視界の外で、彼女は相変わらず笑っているようだった。どうにも捉えどころがない。俺はそう思うが、続けた。
「あなたの名前を、ミッターマイヤーから私は伺っていない。宜しければ教えて頂けないだろうか?」
 それは、ある意味では嘘だった。
 確かに、ミッターマイヤーから改まって彼女の名を訊いた事はない。しかし、奴が機会を見つけて惚気る度に、名前を連呼されていたと思う。
 が、俺はその名を覚えていない。何故なら、覚える必要などないと判断したからだ。彼女に会う事など、未来永劫ないだろうと思っていたからだ。根拠も何もない考えだった。しかし俺の記憶は情報を適切に取捨選択していた。ミッターマイヤーの口から出てくる女の名前を、見事に聞き流していた。
 酷い話だろう。しかし俺がそれを彼女に言う必要はない。…もしかしたら夫には、喧嘩の際にでも言うかもしれない。まあ、それが妻にまで伝わるなら、伝わってもいい。
 ともかく、今の彼女は、俺の申し出に顔を綻ばせていた。気を悪くする事もない様子だった。軽く体を傾げ、俺に一礼する。
「ああ…エヴァンゼリンと申しますわ、ロイエンタール少佐」
「そうですか」
 俺は彼女を見やった。コーヒーカップを、テーブルに戻す。軽く澄んだ音が鳴る。その僅かな衝撃で、カップの中に半ばまで残っていた液体が波打った。そこからゆっくりと漂ってくる湯気が、俺の顔まで掠めてきた頃に、俺は口元に微笑みを作った。
「――ならばあなたの夫の親友として、改めて挨拶したい。エヴァンゼリン・ミッターマイヤー」
「はい、オスカー・フォン・ロイエンタール様」
 彼女は俺の名をしっかりと覚えていたらしい。それを呼び、にっこりと微笑んだ。





 ――やはり、女は――いや、彼女だけは、苦手だ。俺は、そう判断せざるを得ない。漁色家が訊いて呆れる。馬鹿げた話だ。
 この2杯目のコーヒーを飲んだら、さっさと帰るとしよう。俺はそう、固く決心した。
 どうにも彼女には敵いそうにない。情けない話だったが、勝てない相手に対してはそれこそ戦術的転進を試みるしかないだろう。それが、負けずに生き残るための秘訣だと戦場での経験が俺に勧めてくる。
 やはり、ミッターマイヤーが選ぶだけの女だ。優しい微笑みを浮かべつつもしなやかで、絶対に折れない芯を持っている。一筋縄ではいかない。普通の女ではない。俺が知る女のカテゴリに、全く当て嵌まって来ない。だから、扱いに困る。
 お幸せに――などと言うつもりはない。そこまで俺は改心していない。が…――どうすべきか、俺には判らなくなってきた。認めてやるべきなのか?それとも、やはりこの女が邪魔なのか?
 ………判らんままだが、確かなのは、俺は彼女ともう二度と会わない方がいいだろうという事だった。
 しかし、困った事には、彼女は俺の親友の妻なのだ。それこそ、ミッターマイヤーの奴から会わせられるような機会は、いくらでも出てくるような気がする。
 …全く、困ったものだ。そう思うと、旨かったはずのコーヒーがやけに苦く感じられた。
 俺の前に居る、エヴァンゼリン・ミッターマイヤーと言う名の女は、相変わらずにこやかに笑っている。彼女のすみれ色の瞳は、俺の金銀妖瞳を眺めやりつつも、朗らかな色を醸し出していた。

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