「――それはいけませんわ!」
 強い声がした。
 俺はその声が、目の前の女から発せられた事に、一瞬気付かなかった。あまりに毅然とした声だったのだ。
「…は?」
 俺は戸惑い、思わず馬鹿のような声を出してしまう。半ば腕が解け、彼女の顔を見る。
 彼女は背筋をぴんと伸ばしていた。俺をじっと見据えている。今までのふんわりとした優しい雰囲気は掻き消えてしまい、そこにあるのは厳しい表情だった。その唇から、言葉が紡がれる。
「あなたは亡くなった後に、ウォルフを辛い目に遭わせるおつもりですか?随分と自分勝手な事を仰るのですね」
「いや…」
 何だこれは。
 今、俺はこの女に押され気味だ。口汚く罵られている訳ではない。しかし、俺はこの女を持て余している。
 俺は、責められているのか?――そうなのか?俺は何故、そう感じる?
 奴が死ぬのを見たくないから、俺は奴より先に死にたい。そんな考え方が、身勝手だと判っているからか?逃避だからか?それを、彼女に見抜かれたからか?
 そもそも奴は俺が死んだら、辛いのだろうか。奴の心の中の神殿に、俺は居るのだろうか。まずそこからが謎なのだが…。
 俺なぞを、あいつの神殿に祭って貰う必要はない。そう思う。
 が、心のどこかでは、祭っていて欲しいと思っているような気がする。俺を必要としていて欲しい――それを願っている俺が、いる。「平穏」を意味しているはずのこの目の前の女と、並列の関係でありたいのだと思っているような気さえ――。
 ミッターマイヤーの妻は、俺を見据えたままだった。その顔には微笑みすら浮かんではいなかった。今の彼女に、和む要素は何処にも見当たらない。
「ならば、あなたはウォルフと共に戦って、共に生き抜いて下さい。互いを守って下さい。おそらくはそれが、ウォルフの望みだと思います」
 そこにあるのは、毅然とした表情だった。可愛らしいはずだった顔だが、その眉は持ち上がっている。まなじりには厳しさが溢れ、口はきっと結ばれていた。
 ああ、軍人の妻とは――銃後とは、本来このような顔をするものだろうな。俺はそんな事を思った。
 今まで夫の命を心配していたくせに。どうしてこんな顔を出来るのか。全く、女とは不思議だ。
 …いや。彼女は、俺が今まで見てきた女とは、明らかに異質な存在なのかもしれない。だから、ミッターマイヤーのような「戦場の勇者」を捕まえておけるのかもしれない。それを、許容出来るのかもしれない。
 俺は彼女の雰囲気に半ば押されつつ、取りとめもない事を考える。ふと、腕を解いた。思い付いたようにコーヒーカップに手をかける。それを再び傾けようとした。
 が、その中に入っていた黒い液体は量が少なかった。それに、既に冷めてしまっていた。苦味が増してしまっていて、あまり旨い代物ではない。
「フラウ・ミッターマイヤー」
 俺は僅かに顔をしかめつつ、カップとトレイをテーブルに戻す。彼女に呼びかけた。
「何でしょうか?」
「申し訳ないが、コーヒーをもう一杯頂けるだろうか?」
 俺の台詞に、彼女はにっこりと微笑んだ。居間に漂っていた奇妙な雰囲気が、すっと掻き消える。
「…はい、判りましたわ」
 そう言って彼女は席を立った。彼女に従い、ウェーブが掛かったクリーム色の髪がふんわりと跳ねる。俺のコーヒーカップ一式を一旦下げ、盆に載せる。それを添えるような両手で持ち上げ、退出する。その足取りは軽い。俺がこの家に酔い潰れたミッターマイヤーの奴を運び込んだ時と同一だ。俺は何も言わずにその背中を見送った。

[next][back]

[NOVEL top] [SITE top]