俺が心中の苛立たしさを持て余している最中、彼女は視線を持ち上げていた。不意に俺に対して言葉を放ってくる。 「あなたは、辛いのでしょうか?」 「いいえ?私は大切なものなど最初から持ち合わせていませんから」 俺の心の中に、神殿は存在しない。親も既にこの世にはいないし、兄弟も元から存在しない。親類縁者ともほぼ縁が切れている。付き合う女は、俺にとってはいくらでも取り替えが利く存在だ。 何かを崇める感情が全く発達していない俺は、自分自身すら大切なものだとは思ってはいない。無論、自殺願望があって軍人をやっている訳ではないし、今や投げ槍な行動が許されるような地位でもない。俺には部下の生命に対する責任がある。 ――隊そのものを生かすのに必要とあらば、俺はこの命を容易く捨てるだろう。その程度の話だ。 しかし、あいつにはこれを真似て貰いたくはない。ないのだが…奴は毎回毎回危ない橋を渡り続ける。この奥方がそれを知ったら卒倒しかねないのではないかと言う程に。 「ウォルフは違うのですか?」 「…あの男ですか?」 意外な台詞に俺は考えざるを得ない。まさか、彼女は俺の心中を覗いていた訳ではあるまいに。 そもそも俺が奴を「戦場に生きる人間」と考えていたのは、奴があまりに自分の命を軽く扱うからだ。まさか俺と知り合った頃には既に、心の中の神殿に大切なものを祭っていたとは思わなかったのだ。 そんな人間が、俺のように自分の命を道具として扱わないのを信じられなかった。部下や俺を生かすために、どうしてああまで危険な行動を取れるのか判らなかった。あまりに守りに走らない。馬鹿げている。 俺達軍人は、死ぬのも許容範囲だ。それは判っている。しかし、俺は奴には死んで貰いたくはなかった。それは何故なのか――自分の命はどうでもいいのに、奴の命は重要なのか。俺にも良く判らない話だった。 「………確かに彼は、私にとって大切なものかもしれない。不毛な私を豊かにしてくれる、ありがたい存在だ」 ――考えを突き詰めるのが面倒臭くなったので、俺は話を簡略化した。この台詞には偽りもあったが、一部の真実も含まれていた。確かにあの蜂蜜色の髪を持つ親友は、俺の気持ちを和ませてくれる。戦場で背中合わせになれば、全てを知る事が出来る。そして戦闘の合間、酒を酌み交わせば楽しい相手だった。 「でしたら――」 「しかし、私は彼を失いたくはない」 俺は彼女の台詞を遮った。やんわりとした口振りだが、鋭く彼女の気勢を制した。 そうだ、俺は奴を失いたくはない。死なせたくはない。しかし、戦場において、それは敵任せの部分も少なくはない。それならば、いっそ――。俺の考えが、一転に集中していく。 「彼を失って尚生きていたくはない。ならば――彼より先に死ぬのが望みと言えましょうか。それが、彼の盾になってのものなら、私に生きた価値もあると言うものです」 俺は微笑みを浮かべて、彼女にそう言った。 ミッターマイヤーを失って、俺は生きていけるのだろうか?奴を失い、自由になれるのだろうか?――自由になれないとしたら、俺は奴に縛られているのだろうか?やはり、奴は俺の大切なものなのだろうか? …ならば、俺は奴より先に死ぬのがいい。死んだ後の事は、心配しなくていいのだから。奴の代わりに死んだと言う自己満足で、この生を完結させるのもまた良しだろう。元より俺は誰からも望まれずに生まれ、育ったのだ。 俺のような下らない人間よりも、奴が生き残った方が余程ましだろう。俺よりも人望があるのだし、あいつ程の軍事的才能があれば、帝国騎士以上の地位を奉ぜられるのも夢物語ではないだろうから。望まなくとも、地位はあの男の後からついてくる。 俺がそう考えていたその時の事だった。 |