が、やはり、この奥方に対してはこの餌はまるで威力を発揮しなかった。少佐が中佐になり、更には大佐になろうとも、彼女には全く関係がない事だろうから仕方がない話だ。夫がそれを熱望し、昇進を喜ぶなら、彼女も礼儀として喜ぶべきだろう。しかし肝心の夫がああなのだから、彼女も――。
 …相変わらず沈んだ顔をしている彼女を見ていると、俺は段々と苛立たしさを感じてくる。
 確かに、待つ身にとって――昇進など関係ない妻にとって、意味があるのは夫の生還だろう。またしても夫が死地に送られると知れば、心穏やかではおれないだろう。特に次の赴任先が、公共放送でも再三触れられるような「激戦区」だと知れば――。
 彼女の心情は判らないでもない。俺にも、その都度、この身を心配する女は存在した――もっとも、階級が変わってからも付き合いが続いた女など存在しないが。
 待つ女とは、男の無事を願って身を焦がすものだとは、大体判っていた。しかし、俺はそれをありがたいとは思わない。願いで生還率が上がる訳でもないのだから。願った事を恩着せがましく言われるのがたまらなく嫌だった。
 この女も、自分の夫に対して、待つ女になるつもりだろうか。だとしたら、たまらなく鬱陶しい。夫婦の関係など他人事だ。俺が介入する謂れもないだろう。しかし、俺にそれを見せ付けるつもりならば、俺はそれを回避したかった。
 だから、眉を寄せて、俺は彼女に言った。
「――仮にあなたの夫が死ぬ事を恐れているとするならば、それは愚かと言うものだ」
「え?」
 俺は努めて冷淡な声を出したつもりだった。それを感じ取ったか、彼女は怪訝そうな顔を見せた。小さな口からは短い声が上がり、すみれ色のつぶらな瞳が俺を見やる。
 その双眸を俺は見据えた。――笑いも浮かべない金銀妖瞳を真っ直ぐに受け止める彼女は、戸惑うのだろうか。彼女の夫は確か、俺に初めてこの色の違う瞳を見せられた時も、大して何も感じていなかったようだったが。
 ともかく、俺は冷淡な声で続けた。
「あなたの夫は軍人だ。妻にその覚悟がなくてどうする」
 ――そうだ。あいつも俺も、軍人だ。
 赴任先で戦死する可能性は全く否定出来ない。むしろ、激戦区ともなれば、生還率の方が低い。軍人の妻をやるなら、それを理解しておけ。戦死を恐れ、その可能性に押し潰されるならば――いっそ、別れてしまえ。それがお前のためでもあるだろうし、奴のためでもある。
 無論、親友の家庭を崩壊させる気はないので口には出さない。が、現在俺は彼女に対してそこまで思っていた。
「…判ってはいるのですが…」
 彼女は俺の台詞に一瞬弾かれたように顔を上げる。そして瞼を伏せ、溜息をつく。それは割と長い代物で、膝の上で手を組み替え――そして、そんな台詞を言い出した。
 俯いた顔に浮かぶのは、辛そうな表情。夫の無事を祈り、苦悩し、耐える表情。――ああ、見事なまでに俺が今まで様々な女に見てきた代物だ。全くもって、嫌な事だ。
 俺は彼女から視線を外した。さぞかし険しい表情をしている気がしたからだ。俺は手を自らの顔にやる。眉間に指を当てると、案の定皺が刻まれていた。
 気を落ち着かせるために、瞼を伏せる。両腕を持ち上げ、腕組みをした。軽く溜息をついてみせる。そして、俺は違った話を持ちかけた。
「――大切なものを守るのも、失うのも、どちらも辛いものです」
「…どちらも?」
 彼女の問い掛けに、俺は軽く頷いた。そして続ける。
「失えば自由になる。守れば豊かになる。――その逆の話です。己が心に大切なものを祭る神殿を築いてしまった以上、良くも悪くもそれに縛られてしまう」
 俺とミッターマイヤーの前には、戦場ばかりが広がっていると思っていた。荒涼とした風景を共有し、そこに生きていくのが定めだと思い始めていた。
 その場その場で俺が望む事を全て把握してくるあいつは得難い存在だった。泥と油と血に塗れる生活であってもそこが俺が生きる場であり、あいつもそうなのだと思っていた。俺の隣に立つべき奴は、戦場の勇者だった。その信頼を裏切られた事は一度もない。
 ところが、奴は好き好んで、自らの一部を平穏に縛り付けてしまった。――いや、元々、平穏を望んでいた事に、俺は気付いた。気付かされた。
 望めばその手にいくらでも、地位も名誉も――女も掴み取る事が出来るくせに、それをまるで望んではいなかった。持ち得た才能と器量に対して、欲望が全く釣り合っていない男だった。その慎ましさは、普通の平民ならばむしろ美徳だろう。しかし、奴は普通の平民で収まる才能ではなかったはずだ。
 俺はそれに苛立たしさを感じる。だから――奴が望む「平穏」を意味する、彼女を見ていると、苛立たしいのだろう。

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