最低限の家具が備わっているだけで、芸術品の類は全く見当たらない。部屋に彩りを与えているのは、棚の上に置かれている花瓶に活けられている花のみだ。それも華麗ではなく可憐と言う雰囲気で、何処となく自然らしさを思わせる。
 俺にとっては地味で質素に思える居間だったが、大した財産も持たない平民の若夫婦ならばこの程度でも上々なのだろう。
 帝国軍少佐ともなれば少々の贅沢をしても生活には困らない程度の給金を受け取っているはずだが、俺の親友には浪費と言う言葉は全く似合わないと判っていた。資産家の亡父が遺した財産がある貴族の俺と、他の人間を較べては不毛だという事はこの軍隊生活で大体判ってきている。それを教えてくれたのも、あいつとの付き合いだった。
 俺がソファーに落ち着くと、目の前にはコーヒーカップが差し出される。黒い水面からは湯気と共に、コーヒー特有の香りが漂ってきた。その香りは酒に酔った俺にも心地良さを感じさせてくれた。
 更に奥、テーブルの中央には砂糖壺やクリームポット、ミルクなどが並べられていた。本当に準備がいい事だ。客の好みが判らないから、とりあえず全てを用意しておいたか。
 …まあ、ここまで来たら、頂く他ないだろう。少々の面倒臭さも感じるが、親友の妻を邪険にする訳にはいかなかった。
 俺は彼女に微笑を向け、カップをトレイごと持ち上げる。彼女も俺に対して笑いかけてきたようだったが、俺はそれを特に視界に入れるつもりはなかった。
 普通のドリップコーヒーだった。きちんとした豆を選んで、適切な処置を経て淹れている。流石に味は専門職の人間が淹れたものには敵わないだろうが、普通の妻にしては上出来なのではないだろうか?――俺は黒色の液体を一口含み、飲んで、素直にそう感じた。
 俺はカップから口を離す。黒色の水面を眺めやった。――自分の微笑みが、皮肉そうなものになっていない事を確認した。
「美味しいですよ、フラウ」
「お口に合いましたなら、幸いです」
 俺の褒め言葉は7割方は本気だった。残りの3割は儀礼だったが、それはこのコーヒーの味の水準が低いからではない。むしろ平均以上だ。その3割は、そもそも茶と言うものは雰囲気すら楽しむためのものであるが、この状況を俺は実はあまり楽しんでいないからだ。
 俺の心情を知る由もないであろうこの奥方は、幸せそうな笑顔を浮かべている。あり得ない事ではあると思うが、仮に夫が彼女を裏切るような真似をしても、まだ彼女は夫を盲信出来るのではないだろうか。ふと、俺はそんな事を感じた。
 テーブルの上に並ぶ甘味類を一瞥する。が、俺はそれを足すよりもこのまま飲んだ方が味がいいだろうと思った。それなりに旨いコーヒーなのだから、それを邪魔するような甘味は足したくなかった。
 ああ、このコーヒーが旨い事は俺も認めよう。このように旨い茶を飲ませてくれる妻がいるならば、あいつも幸せなのだろう。有り触れた作業を普通に上手にこなせる女は、そう居ないだろうから。
「少佐もブラックコーヒーがお好みですか?」
 そう訊かれ、俺は顔を上げた。相変わらずにこやかに笑っている女の顔を見やる。
「ええ。甘いと、どうも胸焼けしていけない」
 微笑み、そう答えた。その回答はある意味真実を言い当ててはいるが――旨いから砂糖を入れたくないとは答えなかった。それが何故なのかは、俺自身にも良く判らなかった。
「ウォルフもそう仰いますわ」
「…そうですか」
 一瞬、表情が消えそうになった。しかし微笑みを絶やさないように心掛けた。
 夫と俺との接点を見出すのが、そんなに嬉しいのだろうか?
 俺にはその気持ちが判らないし、むしろ不快だった。
 ――やはり、女は苦手だ。特に、俺に勝手に好意を抱いて来ない女の相手は、俺の手に余る。情けない話だが、俺は今、そう思った。

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